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「ブラックライダー」読書感想文
「ブラックライダー」( 東山彰良 新潮文庫上下巻)
舞台は「6.16」という地球規模の大災害によって荒廃し、文明の大半を失った北アメリカ大陸。3つの主人公たちが繰り広げるポストアポカリプス西部劇でありパンデミック小説でありピカレスクロマンであったりするこの作品ですが、超ド級のエンターテインメント性に溢れていながらも読む人を選んでしまうという損な性質を持っているらしい。(詳しいあらすじと解説は下巻巻末の大森望氏の解説を参照のこと。本編を読む前に軽く読む事をお勧めします。人物関係が分かりやすくなるので…)
僕はその謎を探るべく読み進めていくのですが…
告白するとですね、こんなにキツい読書体験したのは久しぶりすぎて、作品によって精神的に殺されるかと思いました(賛辞)。
【以下若干のネタバレあり】
何がキツいかと言うと、「この作品の世界観に一回殺されなければ物語に没入できないなぁ」と、序盤の第1章で感じ取ってしまったからなのです。
物語の世界は、人肉食が一般的となった時代(いちおう禁止する法律はあるが有名無実化している)であり、気を抜いたら頭を銃で吹っ飛ばされたりする世界であったりするのですが、自分の現代的な倫理観をとりあえず脇に置くために数日かかりました。
さらに、特定の感染症が猛威を奮っている現在ですが、現実が実にタイミング良く(?)この作品に没入することを邪魔してきます。現実がフィクションにオーバラップしてきてるのかフィクションの模倣子が現実にアジャストしようとしてるのか非常に曖昧になってきて、自分が侵食されている感覚を覚えました。
これではイカンと思った僕は、一時的かつ部分的にネット上の情報を遮断しました。情報上の自死です(言い過ぎだ)。そうでもしないとこのフィクションの持つ力と圧にリアルに殺されてしまう。
いわば肉を切らせて骨を断つ作戦で、あえて深く物語に没入することでこの作品を読み進めることができたのです。
何故そのような力がこの作品にあるのか。理由は2つです。「刺さる文章が多すぎる」のと、「身近なものとして『死』が描かれる割には『死』に持たせた意味合いが重い」であろうかと。いわば凶悪な武器を多数装備して筋力に全ステータスを割り振った戦士の一撃を連撃されてるかのように(しかも全攻撃はクリティカル判定)。
「刺さる文章が多すぎる」例を挙げると
『もしも悲しみがナイフなら、涙のように流れ落ちるその鋭い刃は大地に突き刺さり、やがてそのまま沈み、触れるものをみんな切り裂きながら、どんどんどんどん沈んでいって、やがて地球の裏側に出てしまうだろう。
もしおれが悲しそうに見えないのだとすれば、それはおれが悲しみに切り刻まれるほうではなく、悲しみでこの世界を切り刻むほうの人間だからだ。』
『その夜、読書中に昼間の出来事を思い出し、本を開いたままで笑顔を作る練習をしてみた。暖かいものを胸の内に感じたが、孤独の輪郭もそのぶんくっきりと見えたような気がした。もしこれが愛というものなら、とジョアンは思った。それは孤独を甘く味わうための塩のようなものなんだな。』
『ー平和を説くやつらはただ臆病なだけかもしれん。勇気を説くやつらはただ人を痛めつけたいだけなのかもしれん。そうじゃないことを証明するのはむずかしいが、それでもおれたちは証明しなきゃならねえ。暴力が悪いと思ったら、ぶっ殺されても殴り返すな。勇気を持ちたいなら、馬鹿にされても退く勇気を持て。それがマリア・レインの息子ってもんさ。』 ……等々。
切ない?違うなぁ。気取ってる?もっと違う。クサい台詞だ?そう思う人はそう思うといい。けど、作品世界を経験した上で語られるこの台詞の文脈を噛み締めたあとは、これらの台詞を言いあらわす言葉で最も適切なのは「刺さる」でしか無いように思うのです。
その上で、心に刺さったこれらの言葉をグリグリとねじり廻し、抜いたりより深く刺したりするのが作中で描かれる「死」の重さです。
長編小説であるこの作品は、物語の本筋を追う周辺に、登場人物の背景や人格を掘り下げるエピソードが頻繁に挿入されてきます。大抵はワルの馬鹿なエピソードだったり虚実ないまぜの法螺話だったりするのですが、それがまた登場人物に肉付けする手法としてとても効果的に配置されています。時に時系列を無視したり、事実と違うことが後で分かったりしますが、その書き方によって登場人物のほとんどに愛着が生まれてしまいます。そうするとどうなるか。そいつが死んだ時には言いようの無い感情が心に浮かびます。
そして、その感情が、ジョアン・メロヂーヤが人間を殺戮するたびに感じていたことなのかなぁ、と想像すると、この作品の中の「死」は重い。重すぎる荷となって読み手の肩にのしかかってきます。しかも累積して。
その人の歴史や人格を味わった上で殺す、その目的が救済の為であるというアンチ・クリスト的役割を当てられたジョアンの物語を経て、最終章の戦争シーンを読み進めていくと、物語の帰結はここしかなかったんだなぁ、という納得感と無力感、そしてエピローグでちょっとの希望に出会える結末が味わえます。
登場人物たちが天国に行けたか地獄に行けたかはとても分かりません。それは皆さんがこの作品を読んで推測してください。僕はこの引用で感想を締めたいと思います。
『-おれたちは道を踏み外しながら生きていくしかないんだ。だれかと出会ったり、だれかにすがりついたり、死に目にだれかの名前を叫んだりしながら、どうにかやっていくしかない。もしそれを愛と呼ぶことができるのなら、天国と地獄はきっとおなじ列車に乗って行けるんだ。』
皆さんにも愛を。 おしまい。