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小僧の死神

※ブンゲイファイトクラブ4  本戦出場作品より改稿

 小僧の死神
         日比野 心労

 洋太はランドセルの肩ひもを両手でギュッと握り締めると、下校路のくだり坂に向かって駆け出した。丘の上の学校から眼下に伸びる『心臓やぶりの坂』は、その勾配の急さに加えて曲がりくねるカーブが全校生の不満の対象になっていたが、洋太はそれでも構わず坂を駆け下りていく。「よーちゃんばいばーい!」「コケんなよー!」坂途中の広場にある、回転する遊具で遊んでいた隣のクラスの仲良し二人が彼に声を掛ける。そのどちらにも返事を返す余裕も無く、洋太は顎を引き小走りで坂から転げ落ちぬように駆け下りていく。
 坂を下り切り信号を待つ。初夏の太陽が彼を照り付ける。赤信号を待ちきれず彼はたったったと足踏みをする。ランドセルと背中の間に汗が伝う。早く、早く帰らなければ。早くしないと追いつかれてしまう。午後の生ぬるい風が彼の鼻っ面を撫でる。雑草が音も無く揺れる。蝉が鳴き止む。信号が青に変わる。彼は駆け出す。
 校内マラソン大会では学年一番だった。先頭を走る自分の後ろには誰もついてくることはできなかった。運動会のかけっこでもぶっちぎりの一位だった。リレーだってアンカーの高学年生よりも早く走れた。なのに、いま彼は自分の後ろにぴたりと張り付く気配を感じている。どれだけ速く走ろうと、どれだけ懸命に逃げようと、家に帰るまでのどこかで必ず追いつかれてしまう。おしっこが漏れる寸前に走って帰る道のように、気を抜けば盛大に漏らしてしまう、そんな感覚が洋太の全身を捕らえていた。
 線路を見下ろす橋を駆ける。広い道路の赤信号を待てずに回り道をする。スマブラを貸しっぱなしの友達の家の前を走り抜ける。いつも吠えてくる犬がいる家の脇をすり抜ける。今なら吠えてくれてもいい、大きな声で、頼むから吠えてくれ。洋太は縋るような思いでその家の横にある薮をかき分けて進む。犬は吠えない。犬小屋は空だ。
 通学路を外れてしまった。いつもは通らない道に出る。洋太はぜえぜえと息をつく。心臓がばくばくと音を立てて跳ねている。肺に酸っぱい味を感じる。ふくらはぎとつま先がしくしくと痛む。声が出ない。洋太は再び走り出す。まだ、追いつかれてはいないはずだ。
「あれえ、洋ちゃんこんな所でどうしたの。道に迷っちゃったのかい?」
 路地からひょっこり出てきた老婆が目を丸くして話しかけてくる。親戚のおばあちゃんだ。洋太の姿を見た老婆は皺だらけの優しい顔で続ける。「あらあら、顔真っ青でなにかあったのかい?いじめっ子でもいるのかね。それとも具合でも悪いのかい?」
 洋太はそのいずれにも首を横に振り、ぺこんとお辞儀をするとまた駆け出した。そうでもしないと、親戚のおばあちゃんまで巻き込んでしまう。誰にも迷惑を掛けたくない一心で、おばあちゃんの心配そうな声を背に、洋太は家のある方角へ走っていく。
 海近く、防波堤のある真っ直ぐな道へ出る。港が遠くに見える。海は凪いで日の光をキラキラと反射しながら、青い金属のように静かに揺れている。波音は微か過ぎて遠くで鳴るラジオのノイズのようだ。どこからか、生き物が腐っていく匂いがする。ここを端っこまで行けば家に着く。洋太は右手に並ぶ黒々とした松林がどこまでも続く道をひた走る。
 洋太は思い出す。おとうさんが寝る前に話してくれた、アキレスと亀の物語。俊足のアキレスは100m先の亀を追い越そうと懸命に走るが、いつまで経っても『亀がいる場所まであと半分』のところにしか辿り着けず、追い抜きは永遠に成功しない、という寓話。なぜか、を考えその夜は寝るのが随分遅くなり、翌日の朝寝坊したことを思い出す。そうだ。大丈夫だ。ぜったいに追いつかれることは無い。洋太はそう信じながら学校を出てはじめて自分の背後を振り返る。

 教室の机の上に花のささった花瓶がおいてある。

 洋太は速度を上げて走る。マラソン大会よりも、リレーのときよりも速く、速く、速く。もう決して後ろは振り返れない。広史くんは帰ってこない。広史くんは帰ってこれない。松林は続いている。海は凪いでいる。日は沈まない。港は遠いまま、家へはあと半分の半分の半分の半分の半分半分半分半分半分だけ辿り着けない。重いランドセルが肩に食い込む。目の前が滲んでくる。心臓が爆発する。ぜえぜえという自分の呼吸に混じってピアノの音が聴こえる。どうしてだろう、空気を伝わる音だって、ぼくのいる所までは半分の半分の半分の半分だけずっと辿り着けない筈なのに。どうしてだろう、おかあさんがお気に入りの、トロイメライのピアノの音がぼくの耳まで届くのは。洋太は家の前に着く。ピアノは鳴っている。玄関に入る。扉を閉める。もう誰も追ってこれない。

 おかあさんが焼いてくれたホットケーキを平らげ、大好きなアップルジュースを飲み干すと、洋太は玄関の扉をちょっとだけ開け、外を眺めた。家から見える海に陽が傾き始めていた。家のガレージに車が入り、おとうさんが大学から帰ってきた。ただいまあ、とおとうさんが手を振った。洋太は今夜、寝る前におとうさんに話そうと思った。自分に追いついて、且つ、自分に追いつけなかった何かのことを。
 洋太はおとうさんに手を振った。そしてすこし躊躇ったあと、海に向かってもういちど手を振った。

                     (了)

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