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海外観光客向け〈オルタナティヴ・ニッポン〉都道府県観光ガイド(第七回)

世界の皆さんこんにちは。私はニッポン在住の旅行ライター、日比野 心労です。
突然ですが、皆さんは今現在、幸福でしょうか。
どうでしょうか。胸を張って幸福ですと言える方はいらっしゃいますでしょうか。そうですね。言い切れる方はそう多く無いでしょう。
日々の生活に疲れ、職場・家庭・学校などで忸怩たる思いを抱かれておられる皆さん……今、不幸であると感じている方、少なくとも幸福な状態では無いと感じている読者の方。そんなあなたに向けて、私からとっておきの観光地をご紹介させていただきます。
そこは、誰もが「幸福」を感じられる県なのです。

第七回 多福丘県(観光難易度:1【易しい】)

・完璧なユートピア「多福丘県」

※以前の記事で球州地方の多福丘県多福丘市へのアクセスは述べさせていただきましたのでその部分は割愛しますが、多福丘市以外の市町村へも多福丘市から公共交通機関が多数利用できる良好なアクセス環境になっています。電車、バス、タクシーなどの利用料金は驚くほど安く、バリアフリー対応も完璧。どんな小さな駅、バス停に至るまで、車椅子対応がなされていますので、旅行者にとって快適に旅ができること間違いありません。
また移動でお困りの際は、現地県民が親身になって対応してくれるでしょう。県民はみな笑顔であなたを最寄りの交通機関まで案内し、使い方や行き先を丁寧に教えてくれます。中には人情にあつい住民が自分の車を出してくれることもあるでしょう。

さて、入県されましたらそこはもう理想郷です。
お間違え無いように願いたいのですが、多福丘県をフィクションの世界で出てくる絵に描いたようなユートピアとして想像してしまうのは間違いです。多福丘県はあのようなディストピアすれすれの危うい社会とは似ても似つきません。かと言って、古代ギリシアで言及されるアルカディアかと言えばそれも違います。
多福丘県には、まず貧困がありません。もちろん経済的な差は生じていますが、誰もが望めばその差を埋められる社会です。そのため、生まれ育ちの環境の違いはあれど誰もが機会を得ることができ、一般に言われる「成功」を収めることができる社会が形成されています。
「成功」がお気に召さない県民ももちろん幸福は感じています。上昇志向の無い人も、それぞれが自分の置かれた場でベストを尽くしまたそれに満足し、日々の生活を心安らかに(または高揚感に漲り)送っています。
またこの県には一切の差別や偏見、人権の侵害や多様性を損なう行為は発生しません。全ての人々がお互いを尊重し合い、思いやりやいたわりの心を持ち、職業、性別、社会的立場や身体的特徴によって他人を貶め、搾取するような事は無いのです。

少々話が抽象的になってきたので県全体を具体的に見ていきましょう。多福丘県の中心都市、多福丘市は、都市生活を至上の幸福と感じる方にはうってつけです。機能的かつ芸術的に配置された建築物はそこに住む人々の知的好奇心や文化的想像力を掻き立て、文化・芸術・スポーツなどのイベントが毎日どこかで開かれています。また食に対する幸福追求も盛んで、街路で開かれている飲食店では、人間の身体の八部分(脳、目、鼻、舌、喉、胃、手、耳)を満足させ、幸福に至らしめる「八体(yatai)料理」と呼ばれるグルメが味わえます。
また、「多福っ子気質」とされる県民性からか、老若男女問わず酒好き祭り好きの住民が多く、年四回催される祭事「多福どんちゃっく」は、黄色いビーバーを模したお面を被り、青空色のクレヨンと木の葉の色のクレヨンを両手に持ち街路を踊りながら練り歩く伝統的な祭りとしてニッポン国内外から多くの観光客を集める一大イベントとして知られています。
都市以外にも目を向けてみましょう。南部の来留米市や竹後市では品質の良い織物の産業が盛んで、そのデザイン性の高さから世界中のファブリックアーティストの聖地として有名です。またその発祥はエド時代に12歳の少女が発明した織物に端を発するためか、両市は世界各地の子どもに対し幸せをもたらすべく奨学金を助成する基金を立ち上げ、国連からも多大な支援を受けて産業を隆盛させています。
自然も豊かです。多福丘市の西部に位置する紐島市では、「ゆうひが丘ロード」という全長33kmにわたる沿岸道路が整備されており、雨の日も風の日も毎夕美しい夕日を眺めることができます(何故か不思議なことに、日没前後の時間は必ず晴れ間が出るそうです)。四季を通じて夕日の沈む海を眺めながら幸せに浸るカップルや、独り身であっても美しさを堪能できる風景が33kmにわたって続き、思索にふける人、詩を編む人、サーフスポーツにいそしむ人達にとってはこの上ない環境であると言えるでしょう。

などなど、多福丘県の優れた点を挙げればキリがないのですが、県は「健全な」幸福を称揚しているだけでは無いのです。読者の皆さんには、一般に言われる「不道徳」や「悪徳」とされている趣味嗜好をいくつか思いつく(そしてそれを実践されている)方もいらっしゃるかもしれません。どこに不道徳とされる線引きするかは各々違う観点があるとは思いますが、常識を逸脱する、あるいは悪徳に耽るといった行為ですら、多福丘県では容認されます。完璧にゾーニングされた地域・空間内という限定条件はありますが、性、快楽、刹那主義、蛮性、変態的趣味などの嗜好を解放できる地域空間は県内各地にあり、そう言った道徳的マイノリティが感じる「幸福」といったものを実現できる社会が形成され許容されているのです。
(※なお、ニッポン国の法律および国際法によって禁じられている行為はもちろん処罰の対象となりますが、発覚し通報を受け駆けつけた官憲にその行為の正当性を説明できた場合は逮捕拘留および送検はされないという慣例が多福丘県にはあります。観光される皆さんにおいてはこの点をよくご理解の上、節度ある逸脱をお楽しみ頂ければこれ幸いです。)

このように社会的キャパシティが成熟した県である多福丘県ですが、私の記事でその幸福度合いを説明できない所も多々あります。なので読者の皆さんにおかれましては、あなたの思い描く幸福を胸に多福丘県を訪れて見てください。その想像は、ほぼ100%叶えられることでしょう。それほどこの県は多様な価値観を受け入れ許容するだけの懐の広い県民ばかりが住んでおり、幸福の追求という点に関しては世界幸福度ランキング開始時からのぶっちぎりの1位独占都市でもありますので、「幸せを味わいたい」という旅行者にはうってつけの観光地であると言えましょう。

ただ、旅行者が一点のみ絶対に守らなくてはいけない現地の慣例がありますのでここに記載しておきます。
「『菅原真道』について、現地県民に尋ねてはならない。話題にしてもいけない。」
というものです。この慣例についての詳細は一切が不明で、私が危険を侵して何人かの県民に尋ねても、誰もが翳りのある表情を浮かべながら「知らない」の一点張りだった為、調査のしようがありませんでした。これが人名なのか事象なのか地名なのかも分かりませんが、この単語については旅行者は触れない方が無難かと思われますので記載しておきます。
(ちなみに以上の注意は宿泊先の宿、利用した観光案内所や交通機関に旅行者向けに手渡されるパンフレットなどで確認することができました。パンフレット発行元に問い合わせもしましたが「回答できません」としか返事はいただいておりません。)

・筆者自身の体験について

「誰もが幸福を味わえる」と私は述べましたが、それでもやはり例外というものは存在します。以下は私の取材旅行中に体験したことですが、旅行者の皆さんに参考として少し話しておこうと思います。

私は数年前、多福丘県に取材旅行に出かけました。
いつもなら単独で旅行するのですが、たまたまその当時交友関係にあった田島という女性も同行していました。
彼女は学生時代、私が所属していた「Fuck Factory」という酷い名前のバンドサークルの創設者で、途中何度か交流が途絶えながらも長い付き合いをしてきた仲です。現在はロンドンで音楽活動をしている彼女が帰国した際に、一度多福丘県に行ってみたいとの要望があった為、同行することになりました。
なかなかパンクで、性に対して開放的で奔放な性格をしていた彼女は、さっそく前述の「悪徳解放区」へ赴き、ここでは書くことも憚られるような行為を私も含めた多人数と繰り広げていました。
行為のあとその時の参加者数名を伴って区内のクラブに出かけ、酒豪できっぷが良く面倒見のある彼女は現地県民の客ともたちまちのうちに打ち解けました。そこで大いに飲みかつ楽しみ、結構に酔った状態で私と共にクラブを出たのです。
刹那的な快楽が過ぎ去れば誰しも一抹の寂しさを覚えるものです。宿への帰り途中の夜道を歩きながら、私たちは現況について会話をしました。
「なあ心労、あんた結婚しないのか。」(彼女は素面でもいつもこの口調です)
「なかなか機会が無くてまだですよ田島先輩。先輩こそ向こうでどうなんですか。」
「あたしはホラ、産めない身体だからさ、何度かパートナー持つ可能性はあったけど、身体の事が分かると相手が引いていく事が多くてね。」
彼女は不妊症で、過去に治療をしていた事は聞き及んでいました。
「田島先輩も僕も、なかなかいい縁には巡り会えないもんですね。」
彼女は溜息をついてコンビニで買い足してきた缶ビールの口を開けました。酔って火照った顔が自嘲気味に少し崩れていくのが分かります。
「こどもも生涯のパートナーも欲しいんだけどなぁ。」
そしてひと息で缶ビールを空けました。私は言葉も出ないままぶら下げたコンビニの袋を訳もなくいじり、「先輩、僕じゃダメですか」と喉まで言葉が出掛かったのを覚えています。その時ばかりは、私たちは「不幸せ」という感情を僅かばかりながら感じていたのではないでしょうか。

私たちは酔っていました。やや千鳥足になりながら夜道を歩き続けたせいか、次第に現在地が分からなくなってきました。宿に向かって歩いていたつもりが、いつのまにか目の前には「大罪府天満宮」という寂れた神社がありました。
歩き疲れた私たちは、境内に入り賽銭箱の前の階段に腰掛けまたビールの缶を開けました。すると、階段の裏の暗がりから何かの影が這い出てきたのです。
私は田島先輩の前に出て、来るなら来いと身構えましたが、先輩はそんな私の尻を蹴飛ばし、「ぼうず、どうしたんだそんな格好で。」と、いつに無く優しい口調で影に語りかけました。
私は目を凝らして影を見つめました。そこには、汚れにまみれ、ガリガリに痩せ細った10歳にも満たない男の子がぼろきれのような服を着てうずくまっていたのです。
「どうしたんだ、誰かにやられたのか。大丈夫かい?」
こういう時の先輩は躊躇しません。自らも親から虐待を受けた経験のある先輩です。すぐさま駆け寄ると持っていたウエットティッシュで男の子の汚れた顔を拭き始めました。
「カギ、あいてたの。ぼく、出たから、こわいとこから。いたいの、もうないの。」
私もつられてハンカチを取り出し、男の子の鼻血を拭いてあげると彼はそう答えました。
「こりゃ虐待だな。おい、心労、周り見てこいつの親が追いかけてきて無いか見ておけよ。」
そう言うと田島先輩と男の子は賽銭箱の裏に隠れました。先輩は色々男の子から聞き出そうと小声で語りかけています。
30分ほど経ったでしょうか。周囲に人影は見えません。深夜2時の境内は冷えびえとしており、酔いの覚めた私は軽く身を震わせました。すると、わあん、という泣き声が賽銭箱の裏から聞こえ、慌てて覗くと先輩が泣いているその子をきゅっと抱きしめて「もう大丈夫だ。もう大丈夫だ。もう誰も、どんな大人も子供もおまえをいじめる奴なんていないところに連れてってやる。」と囁いていました。
その二人の姿を見て、私は胸が詰まった事を思い出します。

腹の空いていたその子にコンビニで土産がわりに買った梅ヶ枝餅を与え、旨そうに食べる姿を微笑みながら見ていた田島先輩は、要領を得ない語りながらもその子が受けていた仕打ちを私に話してくれました。どうやら彼はこの神社の地下に長い間幽閉されており、毎日入れ替わり立ち替わり訪れる人間から罵声を浴びせられ、暴力を振るわれ、最低限の食事しか与えられず、鍵をかけられた部屋でたった一人で生活していたそうなのです。親がいるかどうかも不明で、何故そんな目に遭っているのかを聞くと、「だってそうしないとみんながしやわせになれないから」と繰り返すばかりだったそうです。
「なあ心労、あたし、こいつを助けてやりたい。どうすればいい?」
真顔で先輩はそう言いました。私は警察に行くことを提案しようとしましたが、餅を食べ終わった男の子が先輩の服を掴んで離そうとしない姿を見ると、何故かそれは間違っているような気がしたのです。
「わかりました。僕の取材のツテでTSUSHIMA経済特区に身分証を裏ルートで入手できる店を知っています。すぐスタッフに連絡をつけて船で迎えに来てもらうので、だいぶ遠いですけど海の方へ向かいましょう。」
それを伝えると、先輩は私の腰に後ろから手を回し、ヘソで投げるバックドロップをかましてくれました。私への感謝の表現が昔から奇妙な先輩なのですが、その日のバックドロップも綺麗な曲線を描いてくれました。(受け身はとりました)

いるかどうかも分からない追っ手から身を隠すために、彼を私が背負い、ロングパーカーを上から被せ、私達は長い距離を歩きました。途中、思い出したように身体をビクンと振るわせる彼の体重は軽すぎて、歩いている間、私はここは幸福が満ちた土地であるということを忘れていました。
深夜の県道を延々と北西に向かい、私たちはついに海に出ました。誰もいない払暁の静かな浜辺の沖にあるふたつの岩の手前に、漁船に擬態した一隻の高速艇が投錨しています。連絡しておいたTSUSHIMA経済特区の信頼できる知人です。私は男の子を背中から降ろし、しばらくの間きゅっと抱きしめました。彼もか弱い力で抱きしめ返してくれました。
なんとか二人を船に乗せ、手を振って見送ると、私は白い筋を引いて遠ざかる船尾を眺めていました。今もってこの選択が正しかったのかは分かりません。ですが、幸福というものとは程遠い、何か別の感情が、その時の私の胸をじわじわと満たしていたように覚えています。

後日、私は取材の仕上げとして再度多福丘県を訪れました。街も自然も以前訪れた時と何も変わらず幸せな雰囲気が満ちていましたが、気のせいか街を行く人の数が少ない気がしました。シャッターを下ろしたままの商店もちらほらと見かけます。不思議に思った私は、県庁に向かい統計を調べました。すると、県外への転出の人口が明らかに増えているようです。
何が原因でこのような現象が起きたのかは、尋ねた県の担当者も首を傾げるだけでした。ともあれ、それ以外は変わらぬ街の様子に私は安堵し、今度は幸福感を得て取材を終えたのでした。

・おわりに

今、この原稿を書いている夜明け前、私はあの海を思い出します。幸福の基準は皆それぞれ違うと思いますし、「禍福は糾える縄の如し」とも言いますので、読者の皆さまは一概に私の記事を鵜呑みにされないことが賢明でしょう。ですが私個人について言えば、あの旅行をきっかけに現在、そして未来において、私は自分なりの幸福の尻尾を少しでも掴めたのかな、とも思っています。
皆様も、ぜひ多福丘県を旅して、自分なりの幸せを見つけてみてください。

それでは、少し早いかも知れませんが、妻と息子を起こして、朝の海岸でもジョギングしてこようと思います。
何しろ昨日バックドロップの受け身を取り損ねたので、自分の身体の衰えを感じているものですから。

(第七回 おわり)

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