地獄
地獄
日比野心労
昼休憩に入った。オフィスの周りに飲食店がたくさんある勤務地でよかったー、と志保がポーチを手にすたすた歩いていく。一緒にランチをする約束をした佳苗は、えっと、昨日はカフェのパスタで少し大変だったから、今日は和定食なんかどう、と志保の背中に話しかけた。秋のキラキラした柔らかい日差しに、セミロングの茶髪が緩やかにひるがえる。うん、いいよ、おススメこの辺にあるの? と明るく答える志保に安堵して、佳苗は、午前中の仕事で彼女がしでかしたミスを尻拭いした記憶を消し去った。
雑居ビルの地下に二人は降りてゆく。明後日のライブ、なに着ていく? 課長の鼻毛、今日はちょっと出過ぎてたよねー、やっべ、彼氏にライン返すの忘れてたわー、なんて他愛もない会話を交わして降りきった階段の先には『厨・三尺三寸』という暖簾の掛かった和テイストなチェーン店の入り口がある。混み具合も程よく、二人は入り口にしつらえられた縁台に腰掛けたすぐそばから呼ばれ、店内に入る。落ち着いた渋めの照明、数寄屋造を模した内装、テーブルの間隔もゆったりと設けられており、客は和やかに食事をとっている。
「二名様、ご案内でーす」
と案内された個室のテーブルに着き、志保は日替わりの定食、佳苗は煮魚定食ごはん少なめを注文する。まだダイエット継続中でさー、と、佳苗は椅子からベルトを引き出して長さを調節し、身体がズレないように腰と両肩をしっかりと固定する。志保はベルトの装着に手間取っていたが、昨日のカフェのランチよりも手早くベルトを締められたようだった。ようやく、慣れてきたのかな。互いのベルトが正常にロックされる機械音を確認すると、先輩である佳苗は目を細めた。
と、隣の個室で悲鳴が上がる、体を固定してしまった二人は、様子を覗きたくても動けない。どうしたのかな、また、アレじゃない? 短く持つ『違反』。先週もあったよねー。アレはどこだったっけ、カレー屋さん? でも自炊してお弁当持ってくるのも面倒だからね、職場の人だってほとんど外食だし。ぼっち飯はそもそも『違反』だからねー。うんうん、慣れだよねー。様子の見えない隣席からスーツ姿の男性がまろび出て、店員に脇を支えられて会計へとヨタヨタ歩いていく。あいつ、なんであんな事を、という涙声が遠のいていくと、二人の席に食事が来た。配膳が終わった店員が、隣の個室から二人分の膳を下げていくのが見えた。
さて、冷めないうちに食べちゃおっか、佳苗がいただきます、と手を合わせて箸を取る。箸は長さが125cmあり、先端は10cmほど赤く塗られ、後端は30cmほど青く塗られている。佳苗は席向かい80cm弱の先に金具で固定された志保の膳を眺め、どれからいく? と、箸の青い部分をしっかり持って志保に聞いた。志保は顔を真っ青にして自分の膳を見つめている。ん、どしたの、と佳苗が聞くと、志保は涙目で自分の箸を持ち上げた。長さは22cm、色で塗り分けられていない白木の箸を手に、志保は笑っているのか泣いているのか判別がつかない表情で顔を歪めた。
あ、店員さーん、箸、間違えてますよー、と、すぐさま佳苗は傍を歩いていた店員を呼びとめる。個室の暖簾から覗き込んだ店員は笑顔で、
「あ、そちらの方、その箸で合ってますよー」
と答えると、さっさと別のテーブルへ向かってしまった。
ね、佳苗、これって何かの間違いだよね、冗談だよね、と、志保は震える声で箸を手に持ち佳苗の膳まで手を伸ばす……が、持った箸はかろうじて佳苗の膳まで届くものの、佳苗の口元までは届かず、煮魚をつまんだ白木の箸先は虚しく空をきって彷徨う。あー、やっと、強欲の『認定』されたのかー、と、佳苗は、志保の目の前の皿から今日のおススメの出汁醤油がけの唐揚げをひとつ、その長い箸の先端でつまみ上げて志保の口元へ運ぶ。キャベツの千切りがへばりついた唐揚げが、志保の固く結ばれた唇に触れるが、志保は一向に口を開こうとはせず、涙をこぼしてしゃくりあげる。
「ほら、熱いうちに独り占めして私の分も食べなよ。ひとの彼氏を奪ったみたいにさ。私が気づかないとでも思ったの」
唐揚げにかかった出汁醤油が志保の口元を塗りたくる。キャベツの切れ端をリップグロスに付けたまま、志保はごめんぁさい、ごぇんあさい、と身を捩るが、ベルトで椅子に固定された身体は微塵も動かない。佳苗は、泣いて謝る志保の口が開くのに合わせて、箸先の唐揚げをその中にねじ込んだ。あんたが、食べ終わるまでは、私、出られないんだからね、と、冷たく諭すように言い放つと、佳苗は志保の日替わり定食を次々に彼女の口内へ、そして志保は佳苗の煮魚定食を次々と自分の口内へ、運び続ける。
「ごちそうさまでしたー」の声でロックが外れる。
佳苗は手を合わせて、自分を拘束していたベルトを外して席を立ち、二人分の会計をする為に出口へ向かう。ありがとうございましたー、の声と共に店員が個室に入り、綺麗に食べ尽くされた二人分の膳を下げる。あ、お客さまお忘れですよ、と席に残されたポーチを佳苗に手渡そうと会計へ運ぶが、いえ、結構です。捨てておいてください。と固辞すると、佳苗は昼下がりの光眩しい地上へ出て、仕事が待っているオフィスへと足を向けた。