#番外編 映画『世界一キライなあなたに:原題(me before you)』
*本記事で使用している画像は全て、【映画『世界一キライなあなたに』公式サイト】から引用。
この映画は『表向きのテーマ』と『真のテーマ』という、二重構造になっています。
『表向きのテーマ』
それは『安楽死を望むウィル👨』と『それを慰留したいルイーザ👩』との二項対立を通じて、私たちに安楽死の是非を問うものです。
『ウィル』
不慮の事故で四肢麻痺。治る見込みはなし。時に苦痛を伴い、むしろ悪化の心配さえある。
『ルイーザ』
最初はお手伝いとして雇われ、やがて恋仲として、ウィルに寄り添うことになる。
この段階ではまだ、私たちはどちらか一方の立場に肩入れすることが出来ます。
『ルイーザの立場』
自分の想い人には生きていて欲しい、一緒に歳を重ねて行きたいと願うのは当然の感情。ましてや婚約相手に仕事、友人に日常生活も全て失い、ただ死を待つのみであったウィルに、ルイーザが新しい幸せのかたちを提供していたのは事実。ここまで尽くして来たルイーザの想いに応えてほしい、そう思うのは無理のない話です。
『ウィルの立場』
一方で、ウィルに待ち受けている運命があまりにも残酷であるという事実を、私たちは決して過小評価してはなりません。本来なら出来ていたであろうはずのことが、もう二度と出来ないという現実。ウィルにとって生きるということは、いわばその反復なのです。首から下の感覚は永遠に失われ、ましてや発声さえ失われる日が来るかも知れない。もし自分がそうなったら、と想像してみて下さい。私たちは安易に、安楽死を選ぶウィルの人生を否定することは出来ないはずです。
さて、この安楽死というテーゼに対して、皆様ならどちらを選ばれるでしょうか。
賛成? 反対?
このように、それぞれ異なる立場に立つ人同士で意見を交わすというのも、この映画の醍醐味といえます。
しかしこの映画の『真のテーマ』にたどり着いた時、私たちはその賛否を越えた、また新たな一面が見えて来るに違いありません。
『真のテーマ』
それはこの映画が『私とあなた』の物語であるということです。『表向きのテーマ』に於いては、あくまでも『私』あるいは『あなた』がどう感じるか、というところに焦点があるのに対し、ここでは『相手に対する私』『私に対するあなた』がどう思うか、というところに焦点があります。ここに私たちの人生の悲哀、即ち自己矛盾の問題が浮かび上がってくるのです。
『ウィルに対するルイーザ』
愛というのはまず一つに、自分が相手を想う気持ちです。しかしそれは同時に、相手に想われるということでもあります。その意味で、ウィルに対するルイーザの愛というのは、愛し愛される、私とあなたの関係でなければなりません。
もちろんウィルはルイーザを愛してはいます。ただこの映画に於けるルイーザにとっての愛のかたちとは、ウィルがルイーザのために生きる決心をしてくれること、即ち私という存在があなたの運命を否定から肯定へと転じる、そのような聖母マリア的存在であるということなのです。
本来死を決断していたあなたが、私という存在と出会ったがために生きる決心をした、ルイーザにとってこれ以上の愛のかたちはありません。もちろん『ウィルの立場』からすれば、ルイーザを愛しているが故にむしろ死の決意が揺らがなかったのはいうまでもありませんが、『ウィルに対するルイーザの立場』に立つからこそ、私の存在を持ってしてもあなたの運命を越えられなかったという事実が、人生の深い悲哀、即ち自己矛盾を表すのです。
ただ単にルイーザがウィルに生きていて欲しいと願うだけならば、実はそれはルイーザの身勝手な要求に過ぎません。いわばあなたの想いを無視した一方的な片思いからの単なる失恋です。愛は私があなたを想うと同様に、私があなたに想われるということでなければ成立しません。しかし、むしろあなたに愛されているからこそ私の愛が実らない、この愛の自己矛盾がこの映画の本質なのです。
『ルイーザに対するウィル』
先ほどにも触れた通り、ウィルはルイーザを想ってこその決断です。もちろんウィルの方も、可能であればルイーザのために生きたいと本心では思っているはずですが、しかしこの選択が意味するのは、自分の人生の悲劇にルイーザを巻き込んでしまうということ。即ち事故によって私の身体の自由が拘束されたように、あなたの人生の選択肢が私という障害によって拘束されてしまうことに他ならないのです。
確かにウィル個人の欲求不満であれば、それはウィル個人の気持ちの持ちよう次第で、十分に努力の余地があります。しかし『ルイーザに対するウィル』であるからこそ、ルイーザを介する欲求不満という、絶対に解消出来ない壁が立ちはだかって来るのです。
いくらその時は面倒を見るという強い気持ちがあったとしても、実際に何十年もの間世話を続けるというのは体力的に精神的にも限界があります。また恋は三年というように、熱い気持ちは常に瞬間的で、常同的な保証は何一つとしてありません。マンネリというのは全ての恋愛関係につきものです。魔が差したり、ついカッとなっていってしまった一言で、事態の収拾がつかなくなることもあります。ましてやここに、ルイーザがウィルを延命したという事実が加われば、それはお互いにとって、負い目という強烈な鎖となることでしょう。
あるいはそうでなくとも、ウィルの症状が悪化して、会話が困難もしくは成立しない状態、最悪の場合植物状態も考えられます。その時、ルイーザがウィルを延命させたいう事実は、ルイーザに対する強力な縛りとなるでしょう。ルイーザは決してウィルを見放せず、ウィルもまたルイーザのそばに居てやれない、なぜならウィルはもっとも遠いところにいるからです。
介護はする側も大変ですが、される側にも独特な負い目という疲労感が伴います。これは恋愛関係を泥沼化させるには十分な効力です。ウィルと元婚約者との破局に関するシーンこそこの映画には描かれていないものの、ウィルにはすでにその経験があったと仮定しても、それは決して私の強引なこじつけにはならないはずです。結局のところ、ウィルもまたルイーザを愛するからこそ、ルイーザの愛には応えられないのです。
仮にこのウィルの自己犠牲的な精神を持って愛と呼ぶなら、愛というのは実に簡単なものといえましょう。しかしこの自己犠牲的な愛のかたちというのはどこまでも一方的な片思いに他なりません。愛し愛される関係ではなく、あなたの愛を拒むことで私があなたを愛するという関係でしかないからです。皮肉にも、二人はどれだけ想い合っていても決して両想いにはなれないのです。
『まとめ』
この映画はまさに私たちの人生、そして現実の世界の自己矛盾を見事に切り抜いたものだといえます。確かに私の立場、あるいはあなたの立場よりみれば、この映画から弁証法的に一つの指標を描く事は出来ますが、しかし現実の世界は常に『私とあなた』という矛盾をはらんだもの。この矛盾は解消不可能であり、私たちはこの矛盾をそのままに、抱え込まなければならないのです。そしてこの映画の本質はここにあるのです。それ故にこそ、この映画は私たちの人生のいわばシュミラクルとして、十分な意義を持ち、後世に語り継がれていくことでしょう。
追記:エミリア・クラークが可愛すぎる