読書感想#13 【亀井勝一郎】「現代精神に関する覚書」
今の時代の特徴を一つ挙げるとするなら、私は急ぎ過ぎの時代といえるのではないかと思います。たとえばある男性が何か問題を起こした時、私たちはすぐに男性とは斯く生き物であるという風に、瞬く間に何億という人間を一括して語ろうとします。原因というのは本来、常に様々な要素が複雑に絡み合っているにも関わらず、私たちは一つ一つを丁寧に分析し理解して行くという過程をすっ飛ばしては、一気に結論を出してしまうのです。
私たちは不足の事態が発生した時には、すぐ様その説明を求め、またその気持ちさえあればそれが可能であるとさえ思っています。元来答えというものは何一つとして簡単に導きだされるものはなく、しっかりと時間を掛けて珍味されるべきものであるにも関わらず、私たちは数秒後には判定を下してしまうのです。これでは当然公平な答えなど得られる筈はなく、結論を下す度に次なる問題が浮上して止むことがありません。
急ぎ過ぎる習慣はもはや個人同士での関係にまで及んでいます。私たちは今や意志疎通を言葉だけで完結させてしまうのです。あの人は何もいわなかった、ただそれだけで相手の立場を黙殺してしまい、それ以上の関心を相手には寄せません。何か思うことがあるならしっかりと主張すべきであり、何もいわないならそれに対して意見がないというふうに、私たちは勝手な決断を下しては対話を完結させてしまうのです。相手を理解しに行くという作業を面倒がり、相手から主張してこなければ相手を気にも掛けない、あるいは相手を理解しに行くにしても、相手の真意を汲み取ろうとするのでなしに、自分の人生経験や価値観を元にした憶測で、勝手に相手の言動や意思を意味づけることしかしないのです。
本書に於いても、近代化がもたらした問題として、現代人の感受性の欠如が挙げられていますが、残念ながらこの時代の問題は現代に到るまでに何ら改善されていません。むしろ腫瘍はより大きくなっているともいえます。たとえば私たちがよく耳にし、下手をすればよく口にしてしまう、あの分かり易さというスローガン。これはまさに感受性の欠如を表す以外の何ものでもないでしょう。皮を剥いて貰わなければ決してブドウを食べない赤ん坊のように、分かり易くして貰わなければ自分からは何も理解しようとしないこの現代病の厄介なところは、簡単であるが故に本質的な部分に全く触れないまま、満足感や達成感だけは得られてしまうということです。
かつて芭蕉が奥の細道を旅するに要した月日を、私たちは電車やバスのおかげで数日で完了することが出来ます。その際私たちは窓の外から旅の風景や村落や人物を見ることが出来るでしょう。しかし私たちの見ると芭蕉の見るは決して同じものではありません。芭蕉が疲労しながらもその肉体を草木に託し、その世界の果てに愛惜の涙が頬をつたる時、私たちの疲労した肉体は交通機関に揺られながら休息しているだけだからです。
もちろん効率というのは成長に欠かせない重要な要素です。ただ苦労すれば良いという訳ではありません。人生は有限ですから、闇雲に時間を掛けることが賢明な判断であるともいえません。しかしだからといって本質的なものを忘れてしまうようなら、それは却って急ぎ過ぎている感が私には否めないのです。
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