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努力に勝る天才はなし

努力という言葉で思い浮かぶのは愛知教育大学附属名古屋中学校の3年時の土屋京子さんです。本当によく勉強していました。背が高く学級委員をしていました。3Aは学年の中で一番優秀なクラスで模擬授業もありました。

彼女は走るのも早かったです。その後、旭丘高校に進学し高校時代に留学して一年遅れで東大に入学しました。教養学部を卒業して新聞社に就職。その後翻訳家としてベストセラーとなる『ワイルドスワン』を翻訳しています。多くの翻訳した作品がありますが中でも『毛マオ』は日本語で読むのも大変な大作です。京子さんだから出来たと思います。

中学3年時に作文のコンテストがあり彼女の作文が第一席に選ばれて文集に載りました。残念ながらわたしの書いた作文は第二席で名前だけ載りました。

わたしはとても変わった環境で育ちました。小学1年生の時から宿題をすることさえ許されませんでした。両親が寝静まる12時過ぎにそっと起きて事務所にあったわたしの机で宿題をしていたことを今も思い出します。

父は旭丘高校の前身の愛知一中で学年で2番だったそうです。1番の生徒は全然勉強しなくても出来る天才だったようです。父はお酒に酔うと母に僕は東大の医学部だって無試験で行けたと言っていたそうです。

中学時代も勉強することは親に隠れてしか出来ませんでした。試験期間中に勉強していたら父が帰ってきて勉強しなきゃ出来ないようじゃ僕の子じゃないと言われ夜中の12時まで父にギターを教えるように言われたこともあります。

父はわたしを旭丘高校に進学させたかったようです。わたしは3年生の10月に虫垂炎で手術して抗生物質の副作用でヨブのように湿疹だらけになり爪も剥がれて痒みで眠れない状況になってしまいました。診断書には腹膜炎と書いてありました。

担任は欠席日数が多いのでどんなに試験で良い点をとっても難しい。皆出来るからと言いました。志望校を菊里高校にしました。父は激怒して高校には行かせない。中卒で女工になれと言いました。

でもお嬢様学校に行くなら、人に言っても恥ずかしくないから進学を許すと言われました。金城高校か愛知淑徳高校のどちらかです。当時エホバの証人と聖書研究をしていたのでカトリックの金城高校には行けません。唯一、愛知淑徳高校しか行ける高校が無くて愛知淑徳高校に進学しました。

高校に入学して初めてのテストで500人中13番でした。テストの成績が良いことでグループ全員から、そういう人とは思わなかったと無視されるようになり勉強する意欲を無くしてしまいました。人生で最も辛かったのは高校時代です。

高3の5月に父は離婚調停を始めました。学校を早退して調停委員と面会しました。
父は愛人と結託して母が家事を全くしないのが離婚理由だとして無一文で家から追い出そうとしていました。わたしは調停委員に父がわたしが小学1年生の時に愛人を事務所に連れて来て愛人から家を追い出されて2年生の時に引っ越したことなど父がどれだけ母に酷いことをして来たかを全て話しました。その結果離婚は不成立になりました。随分愛人に憎まれました。

高3の二学期になって父は東大の医学部以外大学に行く意味はないと大学進学を許してくれませんでした。東大の医学部に本当に進学して欲しいなら進学校に行かせてくれたら良かったのです。嫌がらせで言っていたとしか思えません。私学なので授業料が高く父は愛人の指示で授業料を払っては、くれなくなっていました。

学校から帰って5時から10時まで喫茶店でバイトして何とか交通費と授業料を稼いで高校だけは卒業したいと必死でした。母は高3の時に命からがら着の身着のまま家を出ました。愛人の標的は長女のわたしとなり随分酷いことをされました。洋服ダンスの母が買ってくれたワンピースはナイフで10cm以上切り裂かれていました。

高校卒業後、家庭教師やフリーライターやイベントの司会などでフリーターとして稼いでお金を貯めて地元の自転車で通える国立大学の工学部に進学しました。愛人に馬鹿にされました。わたしの妹は優秀だから名市大の薬学部に合格したと。勉強だけしていればいい人とバイト代で弟や妹に食事をさせているわたしと一緒にして欲しくないです。

大学時代は家庭教師と塾で教えていました。軽音楽部と管弦楽団の2つの部に入っていました。父子家庭の長女なので食事の支度をしていました。バイト代で食料を買っていました。父は清算すると言ってましたが全額踏み倒されました。

話しが努力のことから外れてしまいましたがわたしは努力家ではないです。ワーキングメモリーが大きいのか九九は2時間で完璧に覚えました。高校の時の古典は試験当日の朝、教科書ガイドを読んで行くだけで90点以上取れました。

努力家だったら別の人生もあったかもしれません。人は環境の影響を大きく受けます。中学時代のクラスメイトの豊田章男君は同じ統計委員をしていました。当時は吃っていました。でも今では社長として流暢に話しています。

長女が東大に入学した年に土屋京子さんと東京支部の同窓会で会い話したことがあります。息子さんは慶應義塾大学に進学したそうです。両親揃って東大だと子どもにも東大に行って欲しいと期待されて大変だなあと思いました。

長女はサピックスの講師の面接を受けましたが塾に行ったことがないと落とされました。塾で勉強した生徒が欲しいそうです。そんな長女が中学生の時に『わたしの辞書には努力という言葉がない』と言っていました。漢字や数学の小テストの勉強をしたことが一度もないです。

わたしが家で勉強を教えていた中学生が先輩は勉強しないんですかと質問した時に言った言葉です。努力も才能。努力出来る人はすごい。そう言っていました。

ギフテッドの長女にとって飛び級のない日本の義務教育は本当につまらないものでした。小学1年生で朝日新聞の一般紙を愛読していたので教科書の内容はつまらなかったようです。ヴァイオリンを5歳の時に習い始めましたが習って半年過ぎた頃先生から、普通ここまで来るには3年かかると言われました。長女は一週間にレッスン当日しか楽器に触りません。わたしも長女をヴァイオリンニストにしたいとか考えてはいませんでした。

長男の1学年下に海瀬京子さんという子がいて、中学の文化祭でピアノ演奏を披露してくれました。息子は前座でヴァイオリン四重奏をしました。彼女の才能はすごいと思いました。わたしが今まで聴いた中で一番素晴らしい演奏でした。将来有望なピアニストになると思いました。日本コンクールで一位になって留学してピアニストになって凱旋公演をしました。2度ほど演奏会に行きました。ファーストリサイタルと沼津交響楽団との共演です。

海瀬京子さんのお母さんはピアノ教師でしたが京子ちゃんを東京の高校や大学に進学させるためにレストランでアルバイトをされていました。お父さんとはPTAの役員でご一緒させていただきました。公務員でごく普通の一般家庭です。

努力家でないわたしが努力家でない娘を育てました。努力という才能も遺伝するのでしょうか?『努力に勝る天才は無し』はきっと真実だと思います。

自由で伸び伸びをモットーに子育てして来ました。長女は本当に勉強しない子でした。中3の時に宿題の問題集を一度も提出していなくて何でやらないのと訊いたら、あんなのやったら馬鹿になると答えが返って来ました。わたしが問題集を見てみると悪問揃いで確かにと思いました。

長女は大学卒業後は就職せずに塾の講師や家庭教師、出版社でのアルバイトで生計を立てて貯金して中学生の時からの夢だった宣教者として8年前にカンボジアに行きました。

半年でカンボジア語をマスターしてカンボジア語で聖書を教えたりしています。数学を教えた時にはとてもわかりやすいと感謝されたそうです。日本にいる時にしていた出版社の仕事を今も続けています。ネット環境さえあれば世界中どこでも仕事が出来るそうです。

長女は中学生の時に新聞記者になりたいと色々文章を書いていました。いつかカンボジアでの生活などを書いて欲しいです。努力家でなくても生きる道はあります。人それぞれ自分の人生を切り拓いていくことが出来ます。

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