日本神話とドンドコ島 イザナギとイザナミの話
私は10年前に宮崎市へ移住して生活を始めたのですが、お陰で南九州を本格的に撮影出来るようになりました。とてもありがたいことです。
中でも特別に好きな風景があり、都城盆地の南部には小高くなだらかな丘があるのですが、ここは特に私が大好きな風景です。
盆地を挟んで北の反対側には神聖な高千穂峰がそびえており、西を見ると遥か彼方に噴煙をあげる桜島が鎮座するという、とても特別な丘なのです。
ここを通ると必ず高千穂峰を撮影しています。
ある日、いつものように雄大な高千穂峰を撮影していたところ、完全に忘れていた昔の出来事を唐突に思い出しました。
それはかれこれ30年近く前に、岡山から高速道路を使用せず45時間で九州を車で一周していた時のことでした。
私は小学生の頃から地図ばかりを見て育ったこともあって初めての地でも道に迷ったことが無く、真っ暗闇に放り出されてもおおよそ南北がわかるほどの感覚を有しています。
ところがどういう訳か、鹿児島方面から国道10号を通って都城盆地に入った途端に、方向感覚をいきなり完全に失って道に迷ったのです。
当時カーナビなどはまだ無く、深夜2時頃だったと覚えていますが、本来は国道10号を別れて北東へ曲がるはずが、予定よりもかなり手前でなぜか鋭角に南東へ折れて、しかも15分くらい気付かずに走り続けてしまいました。
こんな道迷いはこれまでの生涯でもこの時だけで、なぜ方向を見失ったのか考えても未だに全くわかりません。
そしてとても不思議なことに、実はこの時道に迷って間違ってたどり着いた丘が、前述のお気に入りである見晴らしの良い丘だったのです。
忘れていたこの事実を撮影中に突如思い出した私は、ひょっとすると私は何やらこの地に縁があるようだと感じました。直感でいつも行動している私は、いつもは行かないこの丘の南部エリアをしらみつぶしに探索してみたのです。
すると小さな神社を発見したのです。
檍神社とあります。
私は胸が強く高鳴るのを感じました。「あおき」とは神話にまつわる重要な地名です。
宮崎市には阿波岐原町と言う地名があり、これはイザナギとイザナミの神話に出てくる阿波岐原という地名そのもので、宮崎市の阿波岐原町には神話に登場する禊ぎ池とイザナギとイザナミを祀る江田神社があるのです。
宮崎市の江田神社は神話に詳しい人なら、知らない人はいないほどの日本第一級パワースポットで、イザナギとイザナミの神話の比定地として歴史研究者にも認知されています。
そして前述の檍という地名は阿波岐が変化したものです。
社の手前に立っていた檍神社の説明を読んでみると、やはりイザナギとイザナミを祀るとあり、横には小さな池があります。
これが禊ぎ池だ。
興奮を抑えるのに苦労しながら撮影を一通り終え、何か必ず資料があるはずだと家に帰ってネットを探してみると、ありました。
宮崎日日新聞の古い記事で、地域の民俗学者でしょうか山田勝男氏の著書を紹介してあり、檍神社は神話の比定地であり、すぐ北の丘は嫁坂という地名で、これは黄泉坂が変化したものであると書いてあります。
いつも気に入って撮影していた場所がまさにその嫁坂であり、それが神話の黄泉比良坂だったとのことです。
いつもながら直感的に「間違いなくこれが元祖だ」と確信しました。
というのも宮崎市の江田神社は地名も神話そのままで、まさしく正当な存在なのですが、どうも現実味に欠けると私は以前から疑問に思っていたからです。
神話の比定地が複数あることは何ら不思議なことではなく、そのこと自体に問題はありません。
遷都などによって文化の中心地が移動するに従い、時代と共に、その新たな中心地の近くに神話の地が作られることが多いためです。
しかし私はこの都城の檍神社こそが、全ての元祖であると考えました。
そしてずっと前から、私は何か理由があってここに呼ばれていたのではないかと考えたのです。
私はかなり昔から、日本の歴史は1万年前まで遡ると考えていて、縄文時代こそが日本文化の原点であると分析しているのです。
日本文化の誇る自然崇拝、日本人のDNAに刻み込まれた感性、それは1万年前の縄文時代に作られ今に引き継がれていると考えています。
さらに日本神話は1万年前からの情報が詰め込まれた史実に基づくものであるという、仮説を立てていました。
ここで簡単にイザナギとイザナミの話をします。
イザナギとイザナミは全ての神を生み出し、日本を作り出した神であり、二人は仲睦まじい夫婦でしたが、イザナミは火の神を産んだ時に火傷を負って亡くなってしまいます。
イザナギは死んだイザナミに会うために黄泉の国を訪れますが、化け物の容姿となったイザナミを見て恐怖し、追いすがるイザナミから現世へ逃げ帰るという、現代なら炎上しそうな、なかなか酷い話です。
イザナミからなんとか逃れて無事に現世に帰って来たイザナギは、阿波岐原にある池で、穢れを落とすために禊ぎを行いました。
私はさっそく1万年前までの南九州の出来事を、現地を幾度となくウロついて撮影しながら、この神話に当てはめて考察しました。
この作業を5年間ほど行いました。
以下がその結論です。
まず真っ先に浮かんだ光景が、眼前の高千穂峰の噴火です。
データでは6000から8000年前に断続的かつ継続的に、かなりの規模で噴火があったようです。
麓はたびたび猛烈な火砕流に襲われて、多くの縄文人が犠牲になったでしょう。
そして現在の嫁坂の丘は盆地を挟んで高千穂峰の反対側にあり、ここへ被災した人たちが逃げてきたに違いありません。この禊ぎ池で火傷を清めたでしょう。
嫁坂の丘はこのエリアで最も標高が高くなだらかで、かつアクセスしやすい立地で、その丘の裏側にあるあおき神社と池は常に災害を免れていたのかもしれません。
神話のイザナミが火の神を産み、火傷で死んだことを考えても、その話の元が噴火であることに違和感はありません。
さらに縄文人たちは重大な危機に遭遇します。
それが鬼界カルデラ噴火です。
指宿と屋久島の中間点となる海底500mに鬼界カルデラがあり、これが7300年前に噴火したのです。
数百度の火砕流は海上を50km以上も突っ走り、千メートル級の山をも乗り越えて、2000m近い屋久島山頂にも到達し、九州南部を飲み込みました。
生死を分ける火砕流の境界ラインが現在の鹿屋市付近であり、その北にある檍神社の南部ギリギリだったのではないかと考えられるのです。
これによって九州南部の縄文人は亡くなりますが、洞窟にいた者や境界ラインにいた者は火傷を負いながらも助かったかもしれません。そういった人たちがこの丘へ逃れてきた可能性は十分にあると考えられます。
何しろ鬼界カルデラ噴火は、現世人類が遭遇した世界最大の噴火です。
火山灰は和歌山あたりですら20cmも降り積り、主食であった木の実などは数百年にわたり壊滅したでしょう。世界はパニックになったはずです。
この人類史上最大の大災害が縄文人に与えた衝撃は、とてつもないものだったでしょう。
一瞬にして現れた見渡す限りの焼け野原。
今同じことが起きれば、最初の瞬間に100万人くらいが亡くなるはずで、南九州は地獄絵図です。
そう、文字通りの地獄が誕生したのです。
神話で述べられる黄泉の国とは、この鬼界カルデラ噴火を指し示しているのではないでしょうか。
神話において注目されるべきことは、イザナギとイザナミが日本を作り出したということです。
全ての始まりは、ここから起きたことなのかも知れません。
このような大災害の経験と伝承によって神武天皇が畿内への東進を決断したのであれば、実際に畿内へ向かったのは皇歴元年付近の2700年前ではなく、もう少し古い時期だったかもしれません。
一連の調査を行っていて新しい発見もありました。
この檍神社からわずか2キロほど西には、イザナギが禊を行った時に生まれた住吉三神を祀る住吉神社があること。
檍神社のある場所からすぐ南の地名が、見帰という特殊な地名になっていること。見帰とは後ろを振り返るという意味であり、イザナギが黄泉の国から逃げかえる時に、振り返りながら追っ手を逃れたことが想像されます。
いまから4年ほど前におおよその調査を終えて、私はいつか必ず鬼界カルデラに行かなければならないと、強く思うようになりました。
呼ばれたなら応えなくてはいけない。
そう考え、かくして私は三島村行のフェリーに乗り込んで「ドンドコ島」へ向かっています。
え!?ドンドコ島!?ってなに?
って思うでしょ?
私が勝手に名前を付けた島で、正式名称は「薩摩硫黄島」。鬼界カルデラが海上に突き出た、とんでもない島です。
なんで勝手に「ドンドコ島」と名前を付けたのかと言うと、話をするときに非常にややこしいからです。
そもそも薩摩硫黄島は硫黄島という名前でしたが、小笠原の硫黄島が有名で混乱するからということで、こんなひどい名前になってしまいました。
さらに私はかつてこの島を鬼界ヶ島と覚えていたのですが、奄美の喜界島と混乱するために、呼ばれなくなってしまいました。
全くもって失礼な話です。
そんなわけで混乱を防ぐために、勝手に「ドンドコ島」と呼んでいるのです。今後もドンドコ島と言います。
平安時代には鬼界嶋と呼ばれており、ドンドコ島のほうが「きかいじま」という名前の歴史が古いと思うのですが、それを奪うなんてひどい扱いだなぁと思っています。
だからドンドコ島と呼んでいいのか!?と言われても困るのですが、私は愛着を持ってそう呼んでいるのです。
平安時代に既に「鬼界嶋」と呼ばれていたことにも、私は注目しています。鬼との境界を成す島。神話にふさわしい名前です。
「つづく」
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