撮影のモチベーションと2024年の総括
写真撮影のモチベーションを絡めながら、今年の総括を語ります。取り留めのない感じで文章も長いので、その点はご容赦ください。
年々、当たり前のように歳を重ね体力が落ちてくると、如何にして撮影のモチベーションを保つかということが課題になってきます。
私の場合はひとつのことをしばらく徹底的に行なってモチベーションが下がってきたら、それまでと全く異なることをやったり、又はその間に暇つぶし的なことを気晴らしに行います。まぁ方法としては普通なのかな。
風景撮影、旅、食事、読書、ゲーム、映画、睡眠、ドライブなどなど、内容はいろいろ。気を紛らわせて、自然にモチベーションが戻ってくるのを待つ、というのが主な方法です。
気分が落ち込んだ時は、「まぁそんなこともあるさぁ」と、あまり深く考えずに別のことをしたり、ひたすらごろごろしたり。
しかし睡眠は大切で、もともと睡眠時間は毎日3時間程度でも大丈夫なのですが、眠いと感じたら他に優先して徹底的に寝たりもします。
寝ると頭をリセットできるし思考の効率もアップするので、考え事がある時や気合を入れる必要がある時は、まず1時間程度でもいいので寝ることを先に実行します。
長年の旅のお陰で仮眠のプロとなり、どんな状況でも2分もあれば眠れます。そして翌日早朝の3時10分に目覚ましをかけても、その5分前にはスッと目を覚ますことができます。
訓練の賜物です。これは自慢してもいいよねと思っています。
モチベーションを保つためにもうひとつ重要なことは、「どんなことでも決めつけない」ということ。
いつも似たようなことをやっていると、どうせ今日も昨日と同じだろうと、ついついやる前に思い込んでしまいます。
本当にイヤだったり体調が悪かったりする時は無理をせず撮影に行かないし、前述したように気分転換してぜんぜん違うことをやります。
ただ、どうせ同じだろうと決めつけていたことを実際にやってみると、時たま、想像だにしない素晴らしい写真が撮れます。
これが写真の難しく面白いとこで、こういう時に一生記憶に残る写真が撮れたりするわけです。
先のことを決めつけない。
毎日毎日同じでも、明日が今日と同じとは限らない。先のことを考え過ぎると、今を大切にできなくなってしまいます。
今できることをやる、じゃぁ何しようかな?って感じで気負わず、考え過ぎず行動をしています。
そうすればきっとちょっとだけ前に進むのです。
さて、ここ2年ほどプロ野球キャンプを撮影していますが、日本の野球を応援したいという目的以外にも、幾つか理由があります。
今のメディアは全てにおいてポリシーも何も無くて、日本の野球をほとんど無視して大リーグばかり宣伝したり、カネばかりを追っかけて情けない限り。みんなで盛り上げていこうという意識は皆無に見えます。
だから少しでも日本の野球を応援したいという目的が私にはあります。
日本のプロ野球は営利目的でなければ原則撮影を行ってよく、ファンに広く開放されていて感心します。このゆるい開放感や自由感が「みんなで楽しもう!」という雰囲気をうまく作り出していて、野球人気が廃れない重要な要素のひとつになっています。
一方でサッカーは全て撮影が不可で、最近になってスマホでの撮影は一部で可能になったようですが、基本的に禁止です。SNSの時代になって野球との差が顕著になり、最近の日本のサッカー人気低迷の一因になっていると指摘されています。時代に乗り遅れてしまった感があります。
プロ野球キャンプの撮影は、モチベーションのコントロールに活用しています。冬は私の行動力がガクンと下がるので、近場で撮影できるプロ野球キャンプは格好の撮影対象です。
そして今までにやったことがないことをやってみる。こうして撮影の幅を広げることで、自分の技術向上ができればと考えています。
もうひとつの理由は「撮影理論や写真哲学の実験場」。
私はいつも実験的テーマを持っていてその内容はいろいろですが、プロ野球撮影を通して、「連写機能は本当に必要か」「トラッキングなどの高度なオートフォーカスは必要か」「レンズのサイズは重要か」などを現在は検証しています。
結論を言うと、連写機能は必ずしも要らないし、普通のオートフォーカスやマニュアルフォーカスで通用するし、レンズは小さくて軽いほど良い写真が撮れる、と判断しています。
もちろん仕事撮影で一枚たりとも逃せないというような人は、百歩譲って連写は必要だとしても、そこまで超高性能なカメラが必要だとは思いません。
そしてアートや趣味として撮影するなら、10万円くらいのカメラで十分だなぁと感じました。またそのレンズの小ささゆえにマイクロフォーサーズは、他のフォーマットに比べてスポーツ撮影で相当に有利です。身軽になると確実に撮影のバリエーションが増えます。
連写撮影についてですが、連写に慣れてしまうとぜんぜん対象をちゃんと見ていないこともわかりました。見ているようでぜんぜん見ていない。
単写で撮ると、対象をじっくり観察する癖がつきます。
寸分違わず同じタイミングでシャッターを切ったのに、さっきの投手では上手くいったけど、次の投手ではズレてしまう。こんな時、よーく観察してみると、投げ出しの手の位置が少し違ったり、のけぞる大きさが違ったり、踏み込む距離が違ったり、ホントに些細なことに気づくようになります。バッターも然りで、彼らが如何に細かい技術を重ね、それを駆使してバットを振っているのかがよくわかるようになります。
ここら辺は以前に記事で述べた通りです。
こういったことをテーマにして実験しているのは、AIが主流となる時代において、私たちが撮る写真とは果たしてなんなのだろうかという問いがあるからです。
先日プロ野球をテレビで見ていて驚いたのは、テレビカメラのその性能です。一昔前とは次元が違う。あれ程の性能があれば動画の一部を切り出してAIに再レンダリングさせることで、自由自在に完璧な写真を作れるでしょう。
写真とは何なのでしょう。
以前、AIと将棋の話をして、AIが勝ったから将棋はくだらないとはならない、ということを述べました。
同様に例えばオリンピックの100m走を見て、「車のほうが圧倒的に速いじゃん、意味ねェ」とはならないですよね。
人が人の限界に挑み、その限界を時に超えるかもしれない、そこに人は価値を感じるのだと思います。
私は来年も私の道を行くつもりです。
つまりダサくてトロくて、不完全でへんてこな写真を、限界に挑み、限界を超えようとジタバタしながら撮影を続けます。
無駄で不完全なものは、人生でとても大切なものだと思います。
さてさて今年もあと少し。
もうちょっと頑張ってみようかな。