平家落ち武者伝説、安徳天皇、不思議の島「ドンドコ島」
天気予報とは裏腹にまずまずの空模様であったため、ドンドコ島(薩摩硫黄島)に到着してからすぐに、5km四方の小さな島を一周します。
翌日以降は次第に天候が悪化すると、私の直感が言っています。
今回は離島探索最強と言っても過言ではない、スーパーカブ110を持ち込んでいます。
世間では125ccのお洒落なCT125ハンターカブが大人気のようですが、山で本気で使うなら圧倒的にノーマルのスーパーカブ110がおススメです。
意外に思うでしょうが、これにはいろいろ理由があります。
例えば重量。ノーマルは101kg。ハンターカブは118kg。17kgもの差があります。山では軽量化は武器であり、乗り越えられないような障害がルートにある場合に力技でバイクを持ち上げたり、崖からずり落ちた場合も引き上げたり、とにかく軽さは重要なのです。
みなさん17kgの荷物を持ったことありますか。相当重いです。この差は大きいのです。
次にレッグシールドの有無。この要素も極めて重要で、レッグシールドがあることによってどんな草むらへでも突っ込んでいけるわけです。枝や竹などが突き刺さってきても防御できる可能性が高く、有ると無いとでは、全く違います。冷却性能もレッグシールドがあるほうが高いです。
また、郵便配達用の110プロがベースになっているノーマルの110のほうが、全体の信頼性においてもハンターカブより上です。
ガチの過酷な環境で使用するのであれば、少しでもリスクを避けなければならず、総合的に考えるとノーマルを選ぶことになります。
110プロでも良いのですがタイヤが14インチで、やはりロングツーリングとなると17インチタイヤの恩恵が大きいため、私はノーマルの110にリヤサスを変更して使用しています。
ただし、スーパーカブを本当に過酷な環境で使っている人は限られていて、一般の人には、まぁやっぱりハンターカブのほうがお洒落でいいんだろうなぁ、と思います。
ハンドルの左側にはスマホ、右側にはガーミンのGPSを付けています。言うまでも無くスマホの信頼性や耐久性は話にならないので、山や僻地での活動で命を大切にするなら、ガーミンのトレッキング用GPSがおススメです。少々ぶん投げたくらいでは壊れません。
さて、日本神話の謎だけではなく、この島には不思議が詰まっています。
もうひとつの不思議、それが安徳天皇のお墓です。
安徳天皇は源平の合戦が行われた壇ノ浦で、入水自殺によりわずか8歳で亡くなったとされる平家方の天皇です。
しかしこの件に関しては、平家の護衛と共に落ち延びたとする伝承が日本各地にあり、その中のひとつがこのドンドコ島(薩摩硫黄島)です。
私はこの地が本命だと思っています。いや、本物だと思っています。
そもそも入水自殺にはいろいろ疑問があります。
武将ならともかく、敵方であろうと天皇が捉えられて殺されることは有り得ず、当時島流しが一般的でした。わざわざ入水したのは何故か。
安徳天皇が壇ノ浦で消息を絶ったため、後に作られた話を盛り上げるための脚色ではないのか。
日本人には古来より他者を徹底的に追い詰めることを良しとしない考え方があり、例えばこのようなケースであれば流刑として島流しにするのが一般的でした。
これは縄文時代より続く自然信仰から来る考え方の延長にあり、亡くなった者は全て神になると考えられおり、恨みを持って亡くなった者は「祟り神」となって災いをもたらすとされていたためです。
ジブリの映画「もののけ姫」にも祟り神が登場しますね。
近年のようなハードクレーマーやカスハラといったような相手を徹底的に叩く文化は、韓国などから大陸文化の流入に伴って急増したものであり、古来より日本人は例え敵であっても相手を敬い、一定の礼をもって行動していました。
したがって安徳天皇が生きて逃れた可能性は、十分にあると思われます。
そして最近になって、大きな発見がありました。
薩摩藩主である島津斉興の自筆による『虎巻根本諸作法最口伝規則』という文書に、この地より八咫鏡を回収して城山へ安置したとの記述内容が見つかったのです。
八咫鏡とは天皇が所有する三種の神器のひとつです。
私はこの記事を見て、この地へ安徳天皇が逃れてきたのはほぼ確定ではないかと思っています。
現在、鹿児島の城山へ安置されたはずの八咫鏡は行方不明になっているとのことでしたが、幕末における天皇家と島津家のやり取りの中で、別の場所に安置されている可能性も否定できません。
そもそも藩主が、そんな大それたウソを書くはずがありません。今も述べたように八咫鏡とは、大変な代物なのです。
ただ気になるのは、安徳天皇の処遇です。
この地は当時既に、流刑の島として利用されていたことがわかっています。そして西隣の黒島にも平家落人の伝承があり源氏の追撃部隊がやってきたという内容であるため、ドンドコ島の安徳天皇の存在は知られていた可能性すらあります。
黒島の伝承では、やって来た源氏の兵士はそのまま去り、残った源氏の武将と平家の姫が結ばれたというものです。
その武将のお墓とされるものが「イバドンの墓」として、黒島に残っています。
早い話が源氏の追撃部隊がやって来た時に、「もうこれ以上、彼らを追い詰める必要はない」と判断されて、見逃されたとも考えられます。
つまり安徳天皇は従者と共に、その幼い年齢も鑑みて許され、またこの島が既に流刑の島であることから、それ以上の罪に問われることなく地域の有力者によって守られていたか見逃されていたのかもしれません。
しかし、さらに謎があります。
黒島の伝承での武将は源氏方についていた大庭三郎家政であるとされていますが、結ばれた相手とされる「姫」は、何者だったのか。
実は安徳天皇は女性だったとの分析があります。これはわりと有名な話で、さまざまな当時の資料から、女性であった可能性が高いとされるものです。
当時は12歳くらいで大人の女性とされていたと考えられ、源氏の武将の追撃が、安徳天皇が8歳であった壇ノ浦の戦いから数年経っていたとすれば、武将との恋に落ちたのが安徳天皇その人だったかも知れないのです。
私は人知れずひっそりと佇むお墓を前に、「大変な時代を生きられ、お疲れさまでした」と手を合わせました。
ロマンもあるお話ですが、時代に翻弄されて生きた彼ら、彼女らの気持ちを思うと、切なさを感じずにはいられませんでした。
「つづく」