片方角の牡鹿。
カモシカを探して、谷あいを歩いていた。
ニホンザルの群れが、僕の姿に驚いて崖を下り、
一斉に対岸の急峻な岩壁を登っていく。
悪いことをした。
謝りながらその先を見やると、同じ対岸の岩場の先端近くに
野生動物の目立つシルエット。
片方の角が落ちた牡鹿だ。
一本とはいえ、立派な角だ。毛並みも悪くない。
しかし、なぜか顔が斜めを向いている。
「残った角がそんなに重いのかい?」
と、心中笑いながら声をかけた。
彼はじっと遠くを見ているように思えた。
足もとの草を食んだかと思うと、ゆっくり踵を返した。
…かと思うと、再びこちらに向き直った。
挙動がおかしい。
続いて、牡鹿のすぐ下方で
一頭のニホンザルが食事をしているのが目に入った。
サルはゆっくりと歩み出すと、片角の牡鹿のすぐそばを
不自然なほどの近さと緩慢な速度で通り過ぎて行った。
牡鹿は動かない。
「…どうも変だ」
そんなことを思いながら、撮った写真を背面液晶画面で
拡大し、ピントを確認した。
ピントは瞳だ。拡大した画面をのぞき込むと
シカの右目には眼球が無かった。
彼は隻眼だったのだ。
角と片目、両方を同時に失ったのだろうか。
相手は別の牡鹿か。それとも他の動物という可能性も考えられるのか。
よく見ると、膝にも古傷があるようだ。
カモシカが好むような急峻な岩稜帯に迷い込んでしまい、
慣れない視界のせいで戸惑っているのかもしれない。
顔が不自然に傾いていたのは、
片目で足場の悪い下方を見つめていたのか
それとも傍にいたニホンザルが気になっていたのだろうか。
春先の今は、まだ鹿達には辛い季節だろう。
加えて片目の牡鹿はその視界に戸惑い、
さらに生き抜くことが困難に思えた。
隻眼の牡鹿を見るのは、これが初めてではない。
道東の雪原で、逞しく歩いていく片目の牡鹿を
撮影した記憶がよみがえった。
今回出会った牡鹿は、あの時の牡鹿に較べて
随分戸惑っているようだ。
生き延びて欲しい。
もう日没が近かった。しばらく見つめていると、
彼は再び踵を返し、今度こそゆっくりと僕の視界から消えていった。
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