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まともな人ほど「ぼっち」になる

今も昔も声の大きい人に同調する人が多い気がする。
例え自分の意にそぐわなくても、己の立場を守るため「はい、その通りです」なんて回答している場面によく出くわすものだ。所謂、忖度という奴です。一昔前はイエスマンなんて揶揄されてもいました。


寂寥せきりょう」と「孤高」
どちらもい「ぼっち」をイメージする漢字ですが、大きく意味が異なります。今では「ぼっち飯」や「ぼっち旅」など、一定の市民権を獲得したであろう「おひとりさま」のぼっちですが、少なくともふたつの意味があります。


「哀れなり、人去りて知る 身の不徳」
これに代表される「ぼっち」は寂寥せきりょうに近しい意味合いであろうか。自分の愚行のせいで人が去ってしまい、結果として「ぼっち」になってしまう寂しい方のことです。英語で言えばLonlyといったところ。


これに対して「孤高」の持つイメージは明らかに違う。
誰にも邪魔されず、誰からも干渉されずに自分を信じたのしんでいる。


「信の上には ひとり居て 喜ぶ法なり」
室町時代の蓮如僧侶が謳った言葉が脳裏をかすめます。敢えて英語で表現すると、solitudeでしょうか。例えば、バイオリンのソロ演奏などがイメージしやすいでしょう。ひとり演奏を楽しんでいると、いつも間にか周りが共鳴し出す感覚です。



こう考えると「ぼっち」を混同してはいけないと気付きます。
「ぼっち」には「幸せなぼっち」と「不幸なぼっち」が存在するのです。


忖度をするのではなく、自分の足でしかりと歩いている。己の人生や目標にしっかりと向き合っている。そんな方の「ぼっち」は最高にかっこよく強いのだと思います。


ぼっちで悩んでいる方の話をしばしば耳にします。
悩む必要なんてありません。逆に孤高でありたいとさえ思います。


声の大きな取締役。それに従属する部長連中がやたらと多い。。
敢えて自分の意見をぶつけて何が悪いのか。少しばかり周りの冷ややかな目が気になる昨今ですが、忖度などせず、ただひたすら己の道を歩んで行きたいと思います。


協調性がないのではない。信念を貫きたいだけ。
でも、誰か助け船を出してください。😢


最後まで読み進めて頂きありがとうございました。🌱


🍵 僕の居場所





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