祖父・祖母の想い出と私の幼少期
以前書いたエッセイより。
実は、今日は亡き父方の祖父と祖母の命日。
そう、祖父と祖母の命日は同じで、祖父が亡くなって丸46年、そして祖母が亡くなって丸34年となります。
私の幼少期
昭和34年9月、私はちょうど伊勢湾台風が南方海上で発生した頃に、自宅近くの助産院で生まれました。
台風が接近したため、早々に助産院から自宅に移ったのですが、東海地方に上陸した時は停電で自宅が真っ暗ななか、生まれたばかりの赤ん坊を誰かに踏まれないかと母親は大変心配したそうです。
当時、私の実家は製材所を併設していて、祖父・祖母や叔父・叔母、また住込みの従業員が数人同居中の大所帯でした。
伊勢湾台風では実家のある地区一帯も床上や床下浸水したそうで、みなさんの中にも色々な経験をされた方も多いと思いますが、私の場合、当然のことながら当時の記憶など全くありません。
しかしながら子供の頃から台風シーズンになるとなぜかソワソワ・ワクワクするのは体が覚えているせいでしょうか?
さて、私が幼い頃は、近くに製材所や製糸工場などがたくさんあり、また豊川(とよがわ)が近いこともあり、日が暮れるまで外でよく友達と遊び回っていました。
特に夏にはカブトムシやクワガタ採集、またヤゴ(トンボの幼虫)を育てたり、セミやアゲハ蝶のさなぎを見つけては成虫に成るまで観察したり。
秋には鈴虫、マツムシ、コオロギ、果てはキリギリスやクツワムシを求めて豊川の堤防沿いの草むらを探し回ったり。
切り傷や擦り傷が絶えず、よく母親に怒られていました。
また実家の近く、国鉄飯田線の舟町駅には、貨物車両の操作場があり、蒸気機関車のD51(デゴイチ)が勇ましく汽笛を鳴らして動く姿を見るのが好きでした。
特に夕日を背に浴びてD51の運転席から上半身を出して操作する運転手さんのカッコ良い姿は子供の時の憧れでした。
そんな元気いっぱいの『ぼっくう小僧(わんぱく坊主)』でしたが、小学校の健康診断では毎年肺のレントゲンに白い影が写り、4年生までは水泳禁止で、夏の体育の授業はいつも見学ばかりでした。
また保健所でレントゲンの再検査を受けるため、先生と再検査となった数人の生徒と一緒に、路面電車で小学校近くの電停から保健所前の電停(現豊橋中消防署の場所)まで市電に乗って行った記憶があります。
確か当時子供料金が25円だったと思います。
子供の頃は自宅の近くには、先に述べた製材所や製糸工場のほか、八百屋、雑貨屋、また製麺所や豆腐屋、鳥肉屋といった日々の生活に欠かせない商店があって、子供でも安心して買い物できる環境でした。
よく祖母に頼まれてお使いをして、お駄賃をもらって帰り道に近くの駄菓子屋へ寄ったものです。
現在では町工場や商店の大半が姿を消し、その跡地に住宅や瀟洒なマンションが建てられ、言わば人々が住むだけの場所となってしまいました。
何よりも私にとって、製材機が回る「キ~ン!」と甲高い騒音やカットされた製材品の新鮮な木の香りが身近に感じられなくなってしまったことは、やはり淋しい気がします。
またスーパーやコンビニへはちょっと距離があり、いまどきの子供たちはお使いなんてしないし、親も頼まないのだろうなぁ・・・。
ところで、私はどちらかと言えば、お祖父さんお祖母さんっ子だったと思います。
毎年祖父に連れられて製材業組合のバス旅行へ出かけたり、祖母に連れられて祖母の実家である引佐郡細江町(現在の浜松市北区細江町)まで国鉄二俣線(天竜浜名湖鉄道)に乗って行ったり。
そして運転免許証を取得してからは逆に祖母を実家まで連れて行っていましたが・・・。
なお、祖父は私が高校生のときに亡くなったのですが、もう少し長生きしていたら一緒に晩酌ができたのに・・・と思っています。
ちなみに祖父はお酒が大好きで、酔っ払うと目が据わり、とても恐かった思い出があります。
そんな祖父、そして祖母の想い出をふり返ってみたいと思います。
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