[小説] 『鱗』〜ウロコ 13話〜15話。脆(もろ)くもバブルが弾けて行く。
13話
1987年から梶浦は良く働いた。懸命に働く姿は会社にとっても本人にとっても、どんどん良い風が吹き、社長以下ほぼ全ての社員からも、絶大なる信用も得ていたのだろう。
恐らく、そんな姿に河村房子も、梶浦健に愛慕心が増していたに違いなく、時間ときの過ぎる速度が増してる中、企画から営業、資金調達の全てを一人でこなし、既に独壇場と化した梶浦、社長としては鼻高々だったと思う。
そんな日常でも梶浦健は冷静に判断をしていた。
外に目をやれば、足を引っ張る連中が大挙して押し寄せ、危ない輩も屡々(しばしば)、山師の様な盗人も、そこら中じゅうに蠢(うごめいて)もいたのだ。
「梶浦、あれさー、今晩、軽く行くかー」
「はい!お供します、どちらですか?」
「ちょっとね、友人の一人がな、麻布でイタリア料理のお店を始めたんだよ!」
「ほー、イタリア料理ですか!」
「俺なんかさー、田舎モンだからね、イタリア料理なんて全然判らないからさー、ちょっと付き合って頂戴な!」
「構いませんけど、良いんですか私で」
向かった先は一の橋に出来た新築のビル、地下は3階まであり上は10階と其れは立派なテナントビルだ。
イタリア料理は地下1階にあった、地下と言えども高い天井に声が響く。
エレベーターを降りると、真っ先に飛び込んで来たのが大きな幹の桜だった。その桜は生け花では無く、地面に根を下ろした桜の木なのだ。
わざわざ、大理石の床を掘りそこに土を運び、其れ何りの植木職人があつらえた様な佇ずまいの八重桜。
大人の背丈よりも高い幹から、さも計算されたかの様な枝振が広がり、こにあると良いよな!の具合で花を付けている。
扉はステンレスと思われる素材で、シャープでもあり男らしくもあり、表面は梨地仕上げが施されている。
店名の『Opere』の文字が梨地の中に、埋め込まれている様に加工され、梶浦健はその表面を指でなぞると段差が無い事に気づく。
『社長!これどうやって作るんですかねー、想像つかないですねー』
ピン・スポットを浴びた『Opere』の文字は大理石が光り其々それぞれの役目と責任を明確にしていた。
「あれ?把手(とって)が無いねー把手が」
「そうですね、無いですねー、どうやって入るんですかねー?」
入り口の周りを良く観察すると、左の壁に型で押した手形が見える。
『社長!これじゃないですかね?親指が左ですね!』
次の瞬間、今まで見えていなかった扉の中心から、荘厳な空気感と共に、ゆっくりと観音扉が開いた。
「凄いですねー、想像を絶するとはこれですかね!」
「いやいや、参ったねーこれは」
『いらっしゃいませ!』
「あれさー!宇野君いる?宇野君」
「あ、はい、少々お待ちください」
「いらっしゃいませ!社長!お元気そうで!」
「宇野君、入り口凄いねー、本当に」
「そうなんですよ、ちょっと掛かっちゃいましたね、余計に」
「そうだ!これ、少ないけど『開店祝い』」
「梶浦君は、ダメな物はあるの?」
「いや此れと言って無いですねー、何でも行ける口ですね」
「宇野君!じゃー、適当にやって!任せるから、ね!」
「承知しました!」
二人は入口より随分離れた席に落ち着くと、梶浦が一つ口に出した。
「そう言えば、前々から聞こうと思っていたんですけど、社長の車いつも違うじゃ無いですか、何台位お持ちなんですか?」
「ああ!車ね!、実は車は1台も持って無いんだよ、あれ、ほらさー、さっきの曲がって来る角に車屋があったでしょ!」
「ハイハイ!ありますねー前々から」
「そうなんだよ、あそこの社長とさー、色々あってねー、まー詳しくはあれなんだけど、其れでね、何でも持って来てくれるのよ!言えば」
「あ、そうゆう事だったんですか、ナルホド!」
「何でも良いのよ!車なんて、ホントあんまり興味も無くてね、動けば良いと思っているからさー、とは言え、やっぱりねー、あれだよなー」
「前々からの話はもう一つあるんですがね、社長の生まれは何方どちらなんですか?」
「俺はねー、北海道なんだよ!北海道、北海道のね室蘭、みゆき町の出なのよ!」
「室蘭ですか、行った事が無いですねー、室蘭」
「まー田舎だよ、田舎、家はねボロボロのバラックみたいだったなー、小高い丘があってね、イタンキ浜を望む処でね!」
「イタンキ浜って言うんですか?普通もっと漢字っぽいですよね、海岸って言うか浜って」
「あれだろうな、多分アイヌだろうなアイヌ語」
「綺麗だよイタンキ浜は、海岸線がね、こうー緩やかに曲線を描くって言うのかな!」
「ほー、一度観てみたいですね、イタンキ浜」
「梶浦君は九州だっけ?」
「はい!そうですね、大分です」
「あれだよな!北海道と九州が東京で重なるんだから、面白いよなー全く」
「そうですね、確かに……。」
「もっと脂っぽいイメージがありましたけど、美味しいですねイタリア料理って、これって大蒜にんにくですよねニンニクってこんなに美味しいんですか」
近年、街の至る所で商業ビルの建設が目立ち、大きいビルから小さいビルまで駅前から住宅地や農地まで、土地があれば直ぐに建たつと言った建築ブームの波が押し寄せていた。
更地の物件はほぼ皆無と言って良いだろう。
『土地が無ければ作るしか無い』のだ。
社長は日頃、街場の不動産会社の存在に触れる時があり、その日は南岸低気圧の影響で、朝から強風で電車が止まる始末で、しかも傘の役目を失う程の雨も降り続き、2時間かけて歩いて会社に向かっていた。
「おはようございます」
「おう!、おはよう!凄いねー外、ちょっと良い?」
「いや、ちょっとね、梶浦君、君ならどうしただろうね……」
「————社長、どうしたんですか?何かありました?」
「いや、昔ね世話になった人がいてね、その息子さんがね、んー、……」
梶浦は、社長の詰まりながら話す姿に特別を感じていたし、況て、お世話になった方の息子さんとやらの話なら、余計にそう感じざを得なかった。
久しぶりに会ったのが10年ぶりと言って、口を切った。
昔1960年代にとても御世話になったらしく、人生の師匠がいて名を室田と言う。その10年ぶりとは、師匠の息子さんで、甥っ子と言っても良い位の関係で、当の本人も社長の事を『叔父さん』と昔から呼んでいたのだ。
そしてその建男が突然訪ねて来たのだと・・・・・。
話に依ると建男は、代官山で賃貸専門の不動産屋をここ10年程経営して、見た目は物件を表に貼り出す町の不動産屋だ。
この2、3年で狭い業界の伝手(つて)や絡みで、土地に精通している業者と関係を余儀無くされていた。
本来そのエリアの人間では無いのに、どんどんトンネルを掘るシールドマシーンの様に進んでいたと言う。
その日、社長を訪ねて来た時に、他に2人、脇を支えるマル暴担当の刑事の様に、眼光鋭く、流石の社長でも、たじろいだらしく、その時に社長は感じていた。
『もう取り返しが効かないのだろう』と、要はその2人の気迫が人間では無い『奸賊(かんぞく)』と会話をしたのだと、社長は話した。
『当然よ、奸賊と言語が違うんだから、話が噛み合う訳が無いよ』
それは代官山にある懐かしい長屋にも思える一角があり、長年借地と借家で本来の契約者も、最初なのか又なのか、はたまた又の又なのかも知れず、そこの目をつけたのが奸賊の2人なのだと『建男は代官山で顔が効く』『その長屋にも顔が効くのだ』
彼此1年半かけて進めた奸賊の計画は、銀行から一時融資を受けなければ始まらない。その『顔が効く』と『融資』の役目が建男だった。
奸賊の正体は、此の所新聞や週刊誌で謳(うた)う様になった生業だったで、社長にしても周りでは、それに近い人間やら案件も目にしていたと思う、しかしここにいる2人の『鬼』は完全に表には出られない事情があり、ややもすれば建男が総てを被る事を示唆していた。
奸賊の一人が社長に求めた。
『手数料をお支払いしますので……』
「叔父さん頼むよ!」
「俺、命掛けてんだから!これに!」
『全体で1358坪なんですよ。』
その瞬間に凍りつく様な鋭利な空気が流れた。
「でも、まだ住んでるんだろう!未だ未だ、人が」
「まー、大体は話はついています。」
「おい!建男くん、大丈夫か?」
「社長さん、こっちと話していますから、そうでしょ」
「坪450で61億で、売りが坪650なんで、約88億です、しぶとい人間が3人います、ですが、最後の話をしてありますので……〆てまーざっくり25億の5%の手数料で如何ですか?社長さん。」
「そっちの銀行は駄目なのか?」
「そうなんだよ、叔父さん」
「室田さんは承知しているのか?」
「社長さん、彼のお父さんは関係あるんですか?おかしいですよね?それは」
「そんな事はないだろ!、無礼者————」
社長は、覚悟をしていた、長年の経験からの言葉として、建男を救うために出た言葉だったのだ。
「何だとー、無礼者だと————、ふざけんなよ————、おい!何なんだ室田!」
「叔父さん、謝ってよー、ねっお願いだから、叔父さ————ん」
「謝るだと————、冗談じゃない、そっちこそ何なんだ————」
「この野郎————、殺すぞ、兄貴、埋めましょうか」
「埋めるだと————、埋めてみろよ、ほらー、やれー、どうした、やってみろよ————、こちとらなー、てめえらがオムツの頃から命張ってんだ————、やってみろって言ってんだろ————」
「兄貴、やりますよ、俺」
「ちょっと待てよ、なっ、待て————どうすんだよ室田————」
「叔父さん、お願いだよー、もう後戻り出来ないんだよ、自宅担保にして7億入れちゃったんだよ————、7億————」
「エ————、バカかお前は————」
部屋には本来3人が一糸乱れぬ羅列の企(くわだ)てに、恰も津軽三味線の撥(ばち)があまりの激しさに『1の糸』が切れ、続けざまに音緒(ねお)が解(ほつ)れ、『2の糸』『3の糸』までもが畔(あぜ)諸共もろともバラバラになったように。
「出てけ————、建男もだ————、3人とも出て行け————」
社長は、その振り向きざまに見た、2人のスーツの脇から覗く『朴(ほう)の白』に建男を案じた。
翌月、千葉県山武の雑木林から、頭部の無い変死体が発見され、お通夜の遺影の顔は、『叔父さん!叔父さん・・・、俺ね、・・・』其れは、僅か39年で終えた生の中で、無邪気に語り掛ける笑顔だった。
最前列に座る室田は、8日目の抜殻の様に肉体(からだ)が無と成り、しがないパイプ椅子に留まっている様で、途中はどうあれ、救えなかった己を心の底から悔いた。
『建男君、悪かったな本当にごめんよ、御免よ、おいちゃんが悪かった』
香煙(こうえん)の中に見た、建男を見送るお経の烏合(うごう)が、かむろ坂まで聞こえていた。
14話
其れは、入院して11日目に起きた出来事として、臓器の一部を素手で抉(えぐ)り取られる感覚に似ていたのかも知れない。
普段通り運ばれたお昼を食べた後、加賀見啓介は『奈落の底』につき落とされる事になるのだ。
珍しく唐沢先生と岡田先生の二人が、若手数人を引き連れて、それ自体さして、いつもと変わらぬ光景なのだが、今日は口元が、今までの喋り方とは確実に違っていたのだ。
恰も豆乳の中に苦汁(にがり)を入れ回し、シャキッと固まる木綿の様な、そんな締まった口調で発せられた。
「加賀見さん、昨日の『造影剤』のCTの結果が出ました」
「まず病室を変えなければなりません」
「それから、今日ご家族の方に来て頂いて、お話がありますので、どうですかね?」
「はーどう・したん・ですか?突然……」
「何を・言って・いるの・マジで・お願い・しますよ……」
「どっどう・したん・ですか?」
「加賀見さん、大変危険な状態なんですよ」
「えー、だから・何が?・ですか?」
真相を隠す訳でも無いと思うが、ゆっくりとした口調で話し始める。
「実は『心臓』の横に『巨大』な『血栓』が見つかりました」
「大きさ的には約60ミリと、あまり前例が無い程の大きさです、
私も実際の所初めての経験ですね、この大きさは」
「けっ、血栓?60ミリ?」
「今この血栓が剥がれて飛んだとすると、大きさから考えると脳には行かず、
心臓弁に飛ぶと思います、そうなると最悪即死してもおかしく無い位、そんな危険な状態になっています」
あまりに突然過ぎて、何が何だか判らずに『あーそうですか』ともならずにいた。
「えーと、どう・したら・良い・ですか?」
「加賀見さん『心臓外科』を担当しております、鏑木(かぶらぎ)と申します」
咄嗟に『カミさんに連絡しなくては』と思っても、埒(らち)が明かない上に、うまく説明も出来なかったと思う。
そうこうしていると、更に3人の先生の顔が混ざり、もう部屋は人でごった返して、足の踏み場も無い状況になっていた。
「加賀見さん、冷静に聞いて下さい、冷静に」
「はい・判り・ました・冷静・に・聞き・ます」
「私もこのサイズの血栓は初めて見ますが、本当にかなりマズイですね……」
そんな事を言われても、正直困った。勘弁して欲しかったし、やばい感じがハンパじゃなく、このままお通夜を迎えてしまいそうな、そんな勢いだった。
「加賀見さん、とにかく一刻を争う事態になっています」
「そん・なに・ですか、一刻を・争う・なんて」
「まず一人部屋に変えましょう、もし何かあった時には、
ICUとして機能するようにしますのでそれから、直ぐに脳と心臓のMRIも撮ります」
いつものようにお昼を食べた後に、メールを見ながらアレヤコレヤと、仕事の事など考えていたと言うのに、青天の霹靂か、今この部屋にいる人数の合計が、1、2、3、…、9人もいるではないか『呼吸器』『循環器』『心臓外科』と、病院内で最も忙しいとされる3科の、オールスターが一堂に介していた。
岡田先生が付け加えると「『心房細動』こそが、その『巨大血栓』の原因だと思います」
『心臓外科』の鏑木先生に来て貰った事を説明していたのだ。
「もしかすると、早急の手術が必要になるかもしれないのですね」
この1週間の全てが吹っ飛んだ、今まで積み上げた、喜びや憂うれい、人間の愚かさや欲望、心の闇や気高けだかさ愛情や尊敬など、総てが崩れ落ちた。
静かな一人部屋は、比較的綺麗なビジネスホテルの一室に似ている。9階よりも、部屋が広く開放感抜群の筈なのだが、そんな開放感より、カーテンに遮られた狭い世界の方が、病人らしく病室らしくもある。
カミさんが大急ぎで飛んで来た所でナースステーションに連絡をすると、少し緊張した趣(おもむ)きで、3科の先生が各々おのおの会議室に集まり、一台のPCのモニターには、加賀見啓介の心臓のCGが、まずまず鮮明な画像として、ハリウッド映画のワンシーンを編集している編集スタジオの様に、立体的に浮かび上がっていた。
「奥様ですか、初めまして『心臓外科』の鏑木と申します、宜しくお願い致します」
「こちらこそ、お願い致します」
「我々もびっくりしたのですが、心臓の脇に血栓が見つかりました」
「正直このサイズはあまり前例がないので、正直困惑しています」
『呼吸器』の唐沢先生、『循環器』の岡田先生たちで色々な意見が出た所で、それとなく意見を出し合っ方向性だけで決めましょう的な空気になっていたのだ。
『循環器』からの意見だと今直ぐに手術をせずに、別の治療を進めた方が身体への負担が少なくて済むとの見解で、そんな説明をしていると、どうやら『呼吸器』からの意見だと、肺炎の状態が完治してない状態での手術は、困難だと言い、然し乍ら、鏑木先生の考え方は少しだけ違っていた。
『心臓外科』の見解では、生命の危険から、脱出すべきを最優先に考えるべきで、そこは危険な領域なのだから、一刻も早い手術が必要だと訴えていた。
一体どこに正解があるのか判らない、話の途中、何度かやって来る沈黙。
話が進む中どうやらこの状況に、決定事項として全員で認知をし、方向性では無くズバリどの治療法が一番良いのか『今日ここで決めましょうと!』と、話の中心がもうそこまで迫っていた。
沈黙を破るほど大層な意見など持ち合わせては無いと言えども、我ながら、素朴感丸出しの訊ね方だったと思う。
『仮に・今・手術を・した・場合・ですね・どんな・手術の・方法・なんで・しょう・か……』
鏑木先生が、現時点で血栓を取り除く場合は、と言って説明を始めていた。
「まず胸骨を6、7本切断して左胸を縦に約30センチ位ほど切開します」
「その後、心臓を取り出して『人工心臓』と繋げて、血栓を取り除く方法です」
その方法が一番良い的な事を言っていた。
『寒かった!完全に凍る寸前だった』
「そうですね、リスクも少ないと思います……」
『ゲッ、————』鏑木先生は説明ついでに、詳しく紙に書き始めていた。
『もーやめてー、わかった・から、本当・に』『ヤバいよー』『死ん・じゃう』『絶対・死ぬ・から』
この1週間で大分改善して来たと言っても、まだまだ立派な病人なのだ。
心臓を取り出して、人工心臓のあたりの話になると、悍(おぞま)しい限りで、3人の医師の意見は割れている様で割れては無かった。
この巨大血栓に対して、早急な対応に追われている事では、息が合っているそうなのだ。そう、一刻も早く、手を打たなければならない状況に変わりは無く、カミさんに意見を求めた岡田先生。
『遅かれ早かれ、手術をするのは主人ですので、やはりそこの意見と言うか主人を、尊重するのが良いとは思います……が』
恐らく僕がカミさんでも同じ様な事しか言えないと思う。それはそれで部屋の中は、相当切迫していたので、皆滅多な事は言いづらいのだ、そんな空気を変えたかった。
しかし今日の今まで、この血栓はよくも飛ばずにいたものだと、そこは一同納得顔で、仮に肺炎を患わずらう事無く、普段通りの生活をしていたら、それこそ駅のホームか階段か、はたまた夜の鮨屋か居酒屋で倒れ運ばれたとしても、恐らく元通りにはならぬ身体になっていただろうと。
いつ頃出来たのか、ここまで飛ばずにいた血栓。
実際にその姿形を見た事は無いが、虫の知らせなのかも知れない。
頑張って耐え凌いでいたのだ。ここまで来てジタバタしてもと、その沈黙を軽く破ってみる事にした。
『あっ、希望は・手術を・しない・方向で、お願い・します……』
どうだろう健康の人間であっても恐らく、その説明通りに再現したとする、メスを入れて心臓を取り出した時に、心臓は叫ぶだろう!
『んー何んだー』『何よー』『よしてよー』『やめてよー』『馬鹿じゃないのー』
恐らく機能停止は必至だ。それこそ帰らぬ人に、なってしまうかも知れない。
答えを導き出すには難し過ぎるし、生命に関わる問題だけに間違う訳にも行かない。
岡田先生が『加賀見さんの言う通りですよ』と、ここまで来てジタバタしても、仕方が無い的な話に少し乗っかってくれた。
「仮に飛んだとしても、ここは病院なので大丈夫ですから!」
「イヤ・イヤ、それでも・まずく・ないですか?」
「一つ方法が無い事もないのですが……、少し時間が掛かるかも知れませんが」
「この血栓を根本的に溶かす方法ですね!」
ここ最近認可され実用化になったらしく、そんな薬の存在を話し始める。
「今までこの病院で、お一人だけ成功例の患者さんがいます」
「そう・なんで・すか、それ・良いじゃ・ない・ですか……」
「何とも言えませんが、如何されますか?」
岡田先生の話の列に、割り込んで来る人はいなかった。
いみじくも、その方向で進む事で、岡田先生に軍配は上がった様で、血栓会議も無事終わりを迎え、カミさんが押す車椅子で引っ越した一人部屋に戻ると、2人とも体に力が入らず、特別な会話も無かった。
やや喧騒にも似た部屋から、潮が引いた後の様なしじまに、命がある歓びに何度も浸り、これから先の扉を開き、摂理(せつり)に抱かれしこの身体、もうダメだと何度も叫ぶ落胆の魂に、存亡をかけたこの戦いくさにエールを送るのだった。
『まーとにかく・良く飛ばないで、よくぞ・ここまで・保った・もんだなー』
『大丈夫・じゃない・かなー』と、二人ともそう思っていたと思う、手術の内容がもうホラー映画状態其の物で、些か冗談ぽく聞こえるかも知れないが、絶対的にマジなのだ。
そこに満足げな顔をした、岡田先生が現れながら口を開いた。
「加賀見さん、やはり正解ですよ」
ワザワザ言いに来たのだ。
「『心不全』も完治してない所での手術はやはり、リスクが高いですよ」
「ただあまりにも大きな血栓なので、多分端端から少しずつ、剥がれますし、その際には確実に、脳梗塞にはなりますが、4時間以内であれば良い薬があるので、大丈夫です。安心してください」
「脳梗塞かー、あー・はい、判り・ました……」
「どうして・いるのが・一番・良いで・しょうかね……」
「そうですね……」
「飛ば・ない・様に・これ・から、毎日・・祈り・ますか?」
それはそれは真面目な顔で求めると、息を深く吸い込み、熟慮し顔を表しながら『是非、そうして下さい!』と、薄い笑顔に、僅かな未来を託していた。
15話
ある朝社長に呼ばれると、何やら会社中がザワザワしていた。
「梶浦くん、どうやら例の川崎と千葉を結ぶ高速トンネルが、本格的に動き始めるってよ」
「そうなんですか、それは大変ですね、一大事じゃ無いですか」
「何処とどこを繋げるんですか?」
「川崎と千葉県側は、木更津って言ってるね」
「その道路の名前がさー、東京湾横断道路って名称なまえらしいよ」
「何だか凄い名前を付けましたねー」
「まだ決まって無いと、思うけどね……」
銀行時代のパイプは絶大な威力を発揮し、ゼネコンは元よりその人脈たるや、官公庁にまで広がりを見せ、正直、体が一つでは全く持って足りない位で、仕事は腐る程あり、正直あまり味わった事が無い異様な感覚に、日々押し潰されそうになっていた。
同時に河村房子にも会えないのも確かで、懸命に働く梶浦のお陰か全社員も良く働きその甲斐あってか会社全体で、売上高は倍近くに膨らんでいたのだ。その年の冬に全社員に初めてのボーナスが支給され、社長もたった一人の存在が、ここまで化学反応を見せるとは、予想以上だっただろう。
その翌年には時代の象徴とも言える年号が、昭和から平成に大きく変わり新たな1頁を捲めくる事となり、其れからの2年は、本当にあっと言う間に過ぎて行く中、僅か3年で上場も視野に入れる程に成長していたのだ。
もう誰にも止められない、いわば巨大なダムが決壊し、奔流(ほんりゅう)となって町全体を押し流す、そんなエネルギーに満ち溢れた梶浦健は、もっと先を、もっと激しく、もっと厳(おごそ)かに、見つめていた。
完全に何か麻痺していたと思うし、考え方や思想までも狂い始める中で、なんと言っても日本経済の礎(いしずえ)とも言える株式市場が、徐々に株価を押し上げていたのだ。
もう誰にも止められない畝りとなって、最高値更新のニュースとして、それは連日新聞の見出しを飾っていた。
1988年の暮れに梶浦は、社長に『すいません社長、お話があります』と、勘の鋭い社長は話の中身など、薄々判っていたのだろう……。
「六本木のいつもの蕎麦屋に居るから、そこで話そうか」
「はい、判りました、有難うございます」
何を話したのかあまり覚えていなかったが、社長は最後に涙を浮かべていた。身体から絞り出す様な言葉の数々、その最後には恐らく断腸の思いで梶浦健を諦らめねばならない、煩悶(はんもん)の極みと自らその扉を閉めたのかも知れない。
『実の息子と縁を切るようだ』と。心の底から感謝していた、
ここまで信頼して全てを投げ打って引っ張ってくれた、恩人と呼ぶべき人なのだから。
『君は絶対に、こっちだから』
あの言葉は一生忘れないでおこうと、深く心に刻んでいた。
最初の年は、ありと凡あらゆる、会社全体に流れる血液や取引先までも、吸い尽くす蛭(ひる)のように、生きてやろうと決めていた。
しかし、社長の素っ裸な心や無垢な繋ぎ目に梶浦自身も変わったのだ、父親と言っても良いのかも知れない。社長はスッと立ち上がると『私が先に出るから、君はその後にしてくれ……』
そこに何か特別な意味が、隠れているのか判らなかったが、もう下から上への話も、これで最後にしようと腹を据えた。
幾分燗が残った二級酒、所々ラベルも擦れ落ちた、使い古した瓶徳利、口に含むも解ほどける六味(ろくみ)を、ぐっと一気に飲み干して涙腺緩む瞼を拭った。
梶浦健は心から礼を言った。
『ありがとうございます』と、磨りガラスの引き戸に向かって、深く深くお頭を下げ、顔を上げることはなかった。
師走の都会まちはクリスマスを間近に控え、煌かに光る反面悲哀ひあいにも満ち、今はとにかく河村房子に無性に会いたくて、居ても立っても居られずに、改札口の脇の公衆電話を思い出すと、10円玉が落ちる音と共に、その健すこやかで温和で優しさに溢れた声が、いつまでも谺(こだま)していた。
16話につづく