三角書簡「青いにんじん便り」変わったこと・変わらないこと:二通目
しの君、お手紙ありがとう。人の日常の話を聞くのは良いものだね。ちゃんと生活を送っている、ちゃんと生きているんだなぁと感じるよ。
『青銅の基督』という小説があってね、大学受験のとき現代文の問題集に出てきたのだけど、こんな場面があるんだ。
ーー町々を見晴るかせる丘の上に、二人の男が立っている。
男たちが話しこんでいる間に日は暮れて、家々に明かりが灯る。それを見て、一方の男が言う。
「天には星が光り、地上には人が明りをつける。僕は此処でよく夕方此の景色に見惚れて了ひます。人が明りをつけると云ふ事は実際神秘な感じのものですね。只夜になつたから明りをつけると云ふ以外に深い意味を持つてゐます。何だか涙ぐみ度いやうな、可愛いやうな、有難いやうな感じではありませんか。」
(長與善郎『青銅の基督ーー名南蛮鋳物師の死』
青空文庫、第7節より引用)
この後に続く台詞も印象深いのだけど、人が普段何気なく行っている行為に、ただの行為以上の意味を見出すというのが、何とも胸をしめつけられる気がするんだ。そこに、人間が人間たる所以を感じる。きっと人間にしかでいないことだろうね。いや、アトムにはできるかもしれないな。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』に登場するアンドロイドたちには絶対に無理だろうけど。そして僕は後者のアンドロイドたちこそ、現実にありえるAIたちの姿ではないかと思う。
おっと、話が逸れたね。つまり、僕が言いたいのは、買い物の風景だとか日常で何気なく行っている動作を、こんなふうに言葉や絵で切り取ってみせられると、途端に、何か特別な、神聖ですらあるもののように思えてくるってことなんだ。
街中で、電車の中で、日々すれ違う人、人、人。
それぞれにそれぞれの自己があり、それぞれの生活があり、それぞれの記憶がある。(しかも、一人一人全く異なっている!)
そんな風に考えると、やはり人間は、自然が投げかけるただ一度きりの特別な点であるのだなと感じるよ。同時に、もしこれらすべてをデータとして処理しようとしたら、どれほど厖大な容量がいるのかと戦慄してしまう。そんなデータを扱えるとしたらまさに神と呼ぶしかない……いらんことばかり考えていてすまないね。
さて、この2、3ヶ月の生活で「変わったこと・変わらないこと」だね。
あまり大きな変化はないというのが正直なところだね。仕事場は会社のオフィスから自宅勤務となったけれど、季節は巡るし、僕や他の人々も生活を続けている。アフターコロナなど、いかにもその前後で全てが変わるかのように言われているけれど、僕にはそれでも「なべて世は事もなし」という言葉が浮かぶよ。感染症が世界的に流行して多くの方が亡くなることも初めてではないし、国や文明、それどころか種族丸ごと滅んだことだって数多い。戦争している地域は相変わらず戦争しているしね。
もちろん個々人のあり様や心情という点では今起きていることがすべてで、これまでの歴史で何が起こったかは問題ではないというのも理解しているよ。それでも、それはあくまで個々人の身の上のことで、世間一般とか、世の中というものにとってはほとんど影響を与えない類のものでしかないのだろうと思う。「世」の中、つまり人間意外も含めてこの世の全てという意味で。
ただ、そうした個々人の身上に降りかかることこそが、その人にとって最大の意味をもつのは確かだろう。それで、皆が自身の本当の自己や望みは何だったかを考えるようになれば、それは世の中がより良く変わることにつながると思う。本当の自己や望みというものは、表面にあらわれる自己やその自己が追いかけやすい短期的な快楽よりも、より倫理的なものだと思うから。(このあたりはキルケゴールが抜けていないね)
僕は自己の内省へ向かうタイプだから、生活など目に見えるものが変わったとしても、それが内面そのものの変革につながらないかぎり、変わったということはできなさそうだ。もっとも、時が逆方向に流れ始めたとか、地軸の傾きが変わったとか、物理法則がひっくり返るくらいのことがあれば「なべて世は事もなし」なんて言えなくなるだろうけど。
ああ、でも仕事においては自宅勤務が可能となったことで自炊する余裕が生まれてね、台所事情がだいぶ助かるようになったのは嬉しい変化だった。
というわけで、僕の変わったこと、変わらないことは以上だ。
では次にトクラ君、君の話を聞かせてくれるかい?