満たされたひとりきりの打ち上げ
打ち上げは最高である。打ち上げをするためにがんばるし、打ち上げをするために生きている。つまり美味い生ビールの美味さを最大化して我がのどに叩きつけるおこないは、命の存在証明であるということだ。
先日、天満ナチュラルマーケットvol.111なるマルシェイベントでコーヒーを淹れてきた。
コーヒーだけでなく、アメリカとかのセレブがマインドフルネスに至る行としてSNSで紹介してるんじゃないかというくらい永遠に卵液を濾過する作業の果てに出来上がったプリンも提供した。
111回中110回参加しているイベントだ(うち1回は奈良の林で木を切り倒すイベントで休んだ)。
それだけ長くやらせていただいてると、旧友がひょいと遊びにきてくれることもあるし、初期には存在しなかった我が娘がカウンターに座って「リンゴジュースください!」とオーダーしてくるに至ったりもする。
えらいことだ。高まりきったしみじみがパキィンと結晶化し、我が家の玄関の空気を浄化するオブジェと化しそうである。
そんな、ぎゅっと詰まった一日の後というのはそれは、その後は落下するしかない位置エネルギーが充溢している状態と言える。
それを解放するのをどの店にするのか? が重要だ。作為はないほど良い。打ち上がりたい気持ちを自由に脳裏に遊ばせつつ、商店街を歩いて、ごく自然に打ちあ気(店と人との間に発生する生中をのどに叩き込みたくさせる魔素)に反応するに任せる。
そうして入った店で、ジョッキをあおり、どて煮をつつく。チャールズ・ブコウスキーの短編集(だいたい主人公が酒飲んでる)で燐光を帯びた打ちあ気のボルテージを加速させる。
それはそれとして、ひとり呑みである。限りある胃のキャパでいかに加速しきるか。店内の赤札から選ぶのも楽しみである。
今日入った店には、お造りに鉄板焼き、串カツに焼き鳥などなんでもある。悩みながら食指の動くにまかせてオーダーする。こういうときどうするのが良いのかは先天的に身体が知ってるはず。その声を聴き、従うのが楽しい。結果、だいたい肉と油多めになるけど、しあわせって油だよね! とも思う。
でもお米食べたいよね、と思う。
目の前にアイドルグループの嵐の「一番搾り」のポスターがあり、そこに書いてある言葉を読んで、うん、と思った。
@ 大阪、扇町、「呑助」