その光芒が描くのは
2歳の娘と保育園の帰りに喫茶店に寄った。
毎日通る商店街の喫茶店で、娘は入ってすぐのとこにある熱帯魚の水槽がお気に入り。いつも「わたしのおさかな!」と指さしている。
その日、休み前だったので、
「きょうケーキ食べて帰ろうか」
と言うと、
「ほんとに! わーい!」
と娘は言った。
うおお! 真の、嬉しい気持ちが自然と出た「わーい」だ。カワイイ。
ベビーチェアは無かったけど娘もけっこう大きくなったので、テーブル席に隣り合って座っていっしょにケーキを食べることができた。
フォークを娘に渡すとちゃんと自分で食べる。でも、上からケーキの一部を切ってから、それを刺して食べるとかはせず、側面をボッとえぐるようにするのでちょっと食べにくそう。なのでぼくがちょっと小分けにしておいてあげると、勢いよくパクパク食べてくれてあっという間に完食した。
あとは、娘とお気に入りのYouTube動画をiPhoneで見ながらコーヒーを飲んでのんびりする、という過ごし方をした。
また別の日のことだ。風呂上がりデスクワークで凝り固まった肩を自分でトントンやっていると、娘が、「なにしてるの?」と近づいてきて「わたしもやる!」と、ぼくの肩をトントンしてくれた。
「あ、じゃあ、背中も踏んで」
と言ってうつ伏せになると、娘が背中に乗ってきてふみふみしてくれた。
ちからは弱いし凝ってるポイントにミートしてるわけではないが、肩を叩く拳の一打一打が、背中に感じる小さな足のララパルーザが、どんな指圧師の一撃よりも深く、魂にまで噛み込み、肩とか背中とかのレベルではなく因果までほぐれるようであった。要は、にこにこしてしまった。
ここまで来たか……と思った。
前述のどちらの情景も、2歳や3歳ごろのぼくが親といっしょにおこなったことである。
自分という人間の記憶のほとんどスタート地点の情景と、いまの自分の側で起こっている出来事がリンクした。子どもだったぼくが今は親の側で、立場は入れ替わっているが、それは紛れもなくあのときの親子のワンシーンであった。
娘が喫茶店で「おとうちゃんどうぞ」とフォークで刺したケーキを差し出してくれたときも、娘が肩を叩いてくれたときも、次元が歪むほどの重衝撃しあわせ波に襲われたが、そのリンクに気づいたことで、しみじみ、
(うおお、えらいこっちゃ)
と思った。
これは親子の数だけあるありきたりなことでは決して無い。それは我々家族だけが到達し得たアルティメット真理であり、比較対象の存在しない超速の絶対じあわせが円環を結び無限に加速し続け現れた白光の筋が描くのは娘のまるい顔であった。
たまらず指で、つん、とやると、
「とうちゃん、やめてー。ケーキ食べてるんだからじゃましないで」
と、2歳児にけっこうしっかり注意された。