フロンティアマンはグラスを置いた
乳幼児の間合いにガラスのコップが在るという状況は、さながら火薬庫である。上面はガラ空きで中身は外界とボーダレス、落とす砕けるフラジールぐあい。あと破片あぶない。
中身をこぼして床や服を汚さないように……というのは、我々の価値観にすぎない。傾けたら中身の液体はどうなるのか、手ですくうことはできるか……。
尽きぬ興味がコップの中身を世界へ解放せしめ、ぼくは「あぁーっ!」と叫ぶ。
――っていうことになるんじゃないかと思いつつ、きょう水が入ったガラスのコップを渡してみたら、両手で持ってぐびりと飲んで、ことりと机に置いてみせたので、ぼくは「えっ」と言った。
この「えっ」には、産まれて1年とすこしの娘がすでに、ガラスの硬さともろさ、中身の液体のふるまいと口腔で受け止め嚥下する動作の連動性、好奇心よりも中身をこぼさず保持することのバリューの判断をしていることへの驚愕とその一連の姿が最高にカワイイという感情が含まれている。
娘のことを、社会で生きる常識をまだまだ理解していない未熟な人間、と思ったことは一度たりともない。
娘には娘の、胎内で鼓動を打ったときから持っているものさしがあり、彼女は《自身の体の外側全て》という大陸をそのものさしで測りながら開拓し続けるたったひとりの真のフロンティアマンである。
常識は彼女こそが作っていく。
娘がこの社会の常識に沿った行動をするようになったとしても、あくまでそれは、娘が自分でそうすることの価値を新たに発見したということあり、もともとある《この先できるようになることリスト》にある項目を埋めていく作業ではない。
なので《ガラスのコップで水を飲んで、そのコップをそっと机に置く》ということは我らが娘こそが世界で最初に自分でできるようになったことであると言っても過言ではない。
その動作は、インクが褪せてなお残る、開拓史に描かれたフロンティアマンの姿なのである。
いや、まじで。