つくね食み食み子の御名は
この感情をなんて書いたら良いんだろう。
仕事おわりに、同じく帰路についている奥さんと合流し、最近お気に入りの焼き鳥屋に立ち寄って、名物の辛味爆発のつくねに舌鼓を打つ。
注文した、おろしネギマヨつくねは、大根おろしとタレとマヨでまろやかな風味なのだけど、つくねに練り込まれた香辛料により後から胃があったかくなる感じ。
奥さんは妊娠7ヶ月。お酒は一緒に飲めないけれど、好きな焼き鳥が食べられてご満悦。
子どもの名前、何にしようね、という話をしたりする。女の子だ。冬生まれになるけど、あったかい名前がいいな、とか、先生を困らせない読みやすい名前が良いな、とか、ささみしそ巻きを串からくいっと食べながら話す。
いまのところの名前の有力候補はいくつかあるけれど、急先鋒は、米(まい)ちゃんだ。きょう上手く炊けたお米でつくったおにぎりを奥さんが食べたら、お腹の子がいつもより元気にドンドコ踊ったらしいので。
子どもが出来るというのは初めてだ。命に名前をつけるのも初めて。名前に願いを込めるというのも良いけれど、一見素朴で平易な音や字の名前も良いと思う。むしろそのほうが、子が生まれてからどう生きるか、どんな人生の功夫(クンフー)を積んでゆくかで、その名前のもつ意味がどんどん変わっていくような感じがする。
そういった、なんというか、エイジング、良いじゃないですか。
いまこうやって、焼き鳥美味ぇってなっているのも、これまで美味い焼き鳥を食べることができてきたからだ。赤提灯、焼き鳥の筆文字、油がはぜる音、炭の香り。それらにトキメクということすべて、焼き鳥が、焼き鳥屋さんが、育んできた品格だ。
我が子の御名と御魂を語るのに、大衆酒場をものさしとするのはちょっと違う?
否、間違いなく、子は、焼き鳥屋を初めとする居酒屋のカウンター席の肩と肩の間で、対面に座るテーブル席のお互いに少しそらした視線の交差点で、徐々に育まれていったあたたかい何かによってもたらされた生命だ。
子どもが生まれたら全部が変わるんでしょうね。
日々はシームレスに続いていくけれど、我ら夫婦の二対の目に、もうひとつの全く新しい目が加わる。その目はすべてをゼロの気持ちで見ていくことになる。家族やとても身近な人と過ごすことって、その人の目で世界をみることだ。
これから未知の世界を冒険することになる子どもと過ごすことは、ぼくもまた同じように、世界を未知なるものを見る気持ちで進んでいくことだ。
……えー、すごい抽象的ですが、いや、なんか、公園とかでちっちゃい子どもが「アー!」ってニッコニコしながら走って行くから何があるのかと思ったら、なんか植え込みに引っかかってるカラーボールだったりして、あっそれ全く注目してなかったけど子にとってはものすごいキラーコンテンツなのか! とか、こう、気づきがある。気づき?
まあそれによって、自分の幼いころの記憶と感情がフラッシュバックし、「あーそういやぼくも昔こんな感じだったなー!」って当時の価値観がダウンロードされる。
子と居ることって、ある一面では、そういうことの繰り返しなのでは。だんだん、ひとりで公園ぷらぷらしてても、いい年した大人ですが「アー!」ってニッコニコで植え込みのカラーボール取りにいくようになるのだろう。ふふふ。
とかいうことを、塩焼きの軟骨をこりこり噛みしめながら考えたり話したりして、なんて書いたら良いかわからないんですけど、くぅ、という感情になった。