『積読こそが完全な読書術である』のメモ#1
永田希(2020)『積読こそが完全な読書術である』, イーストプレス
図書館や書店など、本が読まれずにただ「ある」だけの場を考えてもいいでしょう。書物のほうは、人に向かって「いまここで読んで」と語りかけてくるかもしれませんが、人のほうがそれを却下することもまた許されているのです。 (前掲書p41)
この部分を読んで、「レコメンド機能で表示される本の中から本との出会いを体験することはもちろんあるが、一方で何か物足りなさを感じることが多かったり、あるいは、飽きるのが早く感じるのはなぜだろうか」とふと思った。
そして、それは書物が私達に対して放つ”期待”をレコメンド機能では強調しすぎてしまい、出会いの感度をぼやけたものにしてしまう。また、好みを優先して私達に馴染みのある顔ばかり表示してしまうことで、そもそも出会いの機会を減らしてしまうということがあるのではないかと考えた。
書物は、ただあるだけでも、読まれたいという期待を放ってくる。だからこそ、先に引用したように図書館や書店などで単に並べられているだけでも、その中からふと目に留まるものを見つけたり、あるいは、逆にただあるだけだからこそ、無視(あるいは却下)して素通りすることもできる。また、しばらく時間を置いてから、ピンとくることもある。
こうしたことは、多種多様な本が並び、それぞれが期待を放ち、一方でそこから何かを見つけ出そう(出会おう)としている私との間で、ピタッとその期待を受け止めることと無視すること、あるいは、その中間ぐらいで何か気になるというようなことが起こるからではないか。また、そこで重要なのは、決して自身が好みのもの(と考えていたもの)、イメージしていたものだけに留まらない、多くの様々な本との間で上述したようなやり取りが起こることではないか。
膨大に並んでいる本を見ていくことは、自分にとって必要のないものや見たくないもの、また、そうしたものを見ているという時間の無駄など、様々なリスクをもたらす。このように、溢れかえるからこそ、パーソナライズとレコメンデーションは重宝される。
しかし、一方で、過度なレコメンデーションは私と多様な本との間のやり取りというものをなくしてしまう。いくら精度が上がって写鏡のように”私”を再現でき、その”私”が選択するかもしれないモノや情報を並べたとしても、その世界は私自身を固めていき、リスクと引き換えにあり得たかもしれない別の世界を見えなくさせていく(あるいは、そうした別の世界を考えることすらなくなっていく)。
こうした中で、この本(前掲書)で示されるビオトープという考え方が重要になると考える(なぜかについては、考えがまとまった時に、以降のメモで)。