#19 鄭和の南海遠征/中華思想にもとづく世界秩序の確立
こんにちは、クロノ(@chrono_history)です。
今回のテーマは中国史、明の時代に登場する「鄭和(ていわ)の南海遠征」です。
テーマにした理由
「遠征」と言われるとアレキサンダー大王のような侵略戦争を想像しがちですが、鄭和の目的は違いました。この部分を明確にします。
加えて艦隊規模(船のサイズや数、乗組員の数)が半端ないことも知ってほしい情報です。最後の遠征から60数年後に西欧の大航海時代がやってきますが、彼らが使った船とは比べ物にならないくらい大きい船を鄭和艦隊は利用しています。
明代初期の造船技術はヨーロッパよりも進んでいたのです。「ヨーロッパが進んでいて、アジアが遅れている」という思い込みを捨てる事例としても最適です。
鄭和とは?
宦官とは去勢された男の役人を指します。鄭和の故郷である雲南は、明の前の支配者であるモンゴル人を助けた多くのイスラム教徒が住んでおり、夷狄の地とされていました。
明が征服したときに現地部隊の判断で男性を去勢して宦官としたようです。その後、皇帝になる前の永楽帝に出会います。
鄭和の「鄭」は永楽帝が授けたものです。皇帝が宦官に姓を授けることは滅多にないので、永楽帝は鄭和を信頼していた、評価していたと考えられます。
※永楽帝は人を信じられないところがあり、宦官をことのほか信用していました。中でも靖康の変でともに行動している鄭和を信用したのでしょう。
南海遠征の目的
鄭和の南海遠征の目的は「朝貢の促進」です。
冊封とは、中国の皇帝が周辺諸国の支配者との間で形成した国際体制を指します。
皇帝に貢物をもっていき、中国は官爵や印綬、返礼品を与えます。これにより、中国がバックにいることを自国でアピールできる特権を得ます。
古くから「冊封」と「朝貢」は行われてきました。
日本でいえば、奴国の王や邪馬台国の女王卑弥呼が金印を授かっています。室町幕府の3代将軍、足利義満もやっています。儲かりすぎて金閣を作りました。
鄭和の生きた時代は、中国は明王朝、3代目の永楽帝(位:1402~24)の支配下にありました。永楽帝が鄭和に朝貢の促進を目的とした南海遠征を命じます。
今の常識からすると、やるだけ損する「朝貢」を、なぜ永楽帝は促進しようとしたのか?気になるところです。経済的な視点で考えると理解しがたい。
中国史において、経済は政治の下にあることをおさえなければなりません。
世界各国から皇帝に挨拶に来る人々を、自国の民に見せつけて皇帝に徳があることをアピールする必要がありました。
※同じ目的で、徳川幕府が朝鮮通信使を迎えていました。
遠くから人が来るほど、民衆に対しての皇帝の権威は高まるのです。前述の通り、古くから「冊封」「朝貢」は行われてきました。ただ永楽帝の気合いは半端じゃありません。
大艦隊を組織して朝貢を促すなど歴代皇帝はやったことがありません。
永楽帝は、クーデターで3代皇帝についています。2代皇帝の建文帝は行方不明です。円満にバトンタッチされたわけではないので、永楽帝に徳があるのか、疑う人もいたでしょう。
そういう背景があって永楽帝は、歴代皇帝が思いもつかなかったことをやったと考えられます。
※明の時代は「海禁策」がとられており、中国と貿易をするには朝貢(貿易)しか認められていませんでした。
鄭和艦隊の内容
遠征回数:7回
行き先:東南アジア、インド、アラビア、アフリカ東岸
航海距離:10万海里(7回の合計)
人員:約27,000人(7回の合計ではなく1回あたりの数)
外交、交易、戦闘など多様な機能に対応できる
期間
第1回目 1405年~1407年
第2回目 1407年~1409年
第3回目 1409年~1411年
第4回目 1413年~1415年
第5回目 1417年~1419年
第6回目 1421年~1422年
第7回目 1430年~1433年
※第1回~第6回:永楽帝の治世
大型艦船(木造)が60隻程度
艦隊を含めた南海遠征時の記録は、反対派により燃やされたため、分からない部分もあります。おそらく大型船以外に、それをサポートする中型、小型の船が存在しているはずですが、正確な数は分かりません。
合計で200隻程度の艦隊編成だったのではないかと言われております。
艦隊の中心になった大型船は「宝船」とよばれ横幅が長いのが特長です。
長さ約150メートル、幅が61メートル程度とされています。
(ちなみに戦艦大和は全長263m、最大幅38.9m)
武器の他に下賜品としての大量の陶磁器と絹が積み込まれていました。武器よりも下賜品のほうが多かったようです。
数十年後の西欧との比較
コロンブス:艦船3隻(120名)
ヴァスコ・ダ・ガマ:艦船4隻(170名)
マゼラン:艦船5隻(265名)
南海遠征の終焉
永楽帝の死後、4代皇帝では0回、5代皇帝の治世に1回(最後の7回目)行われています。
遠征が中止された理由としては、財政の圧迫と異民族からの防衛に政策がシフトしたことが挙げられます。
南海遠征よりも万里の長城に金を回すほうが良いと判断されます。
鄭和の最期は謎で、7回目の遠征でインドで死んだ、帰国後に死んだ、など諸説あります。
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