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#14【カノッサの屈辱】なぜドイツ国王は教皇に許しを乞うたのか?

こんにちは、クロノ(@chrono_history)です。

世界史には「ボニファティウス8世の憤死」「鉄血宰相ビスマルク」など、ネーミングセンスが光る用語が登場します。

今から話す「カノッサの屈辱(くつじょく)」は個人的には歴史用語ベスト3に入るぐらい気に入ってます。

ざっくりいうと、、、

ローマ教皇に破門されたドイツ国王は、雪が降る中3日間、贖罪服に裸足でカノッサ城門前に立ち続けて許しを乞うたという話。苦々しい思いが「屈辱」という言葉から伝わりますよね。

ただ、、、

なぜそこまでして、教皇に謝らなければいけなかったのか?

そもそも、なぜ彼は教皇から破門されたのか?

この2点が疑問に浮かびます。


カノッサの屈辱:歴史的背景

まず、登場人物2人をおさえておきましょう。

ドイツ国王:ハインリヒ4世(位:1056~1105年)
ローマ教皇:グレゴリウス7世(位:1073~1085年)

オットー1世(位:936~973年)以来、ドイツ国王は神聖ローマ皇帝を兼任します。

ドイツ国王と皇帝の戴冠は別々に行われました。ゲルマン人の慣習により国王は選挙で選ばれます。ゆえに国王に選任されるのが先、後から教皇の戴冠を受けてローマ皇帝になります。

※神聖ローマ帝国では、ドイツ国王じゃないとローマ皇帝になれません。ただ、世継ぎ問題を回避するため存命中に後継者にドイツ国王の地位を譲り、自分はローマ皇帝のままでいる人もありました。

国王就任から皇帝になるまでのタイムラグにはは、個人差があります。
国内ではドイツ諸侯との関係、国外ではローマ教皇や他国との関係が影響しました。

ハインリヒ4世の場合
ドイツ国王としては1056年から1105年、
神聖ローマ皇帝としては1084年から1105年が在位期間となります。

カノッサ事件時、ハインリヒ4世は国王ではありましたが神聖ローマ皇帝ではありません。


「ドイツ」についても触れておきます。もともとは東フランク王国と呼ばれていました。※カール大帝が作り上げた最盛期のフランク王国が分裂して東フランク王国が誕生。

10世紀半ばごろからイタリア人が東フランク王国の諸部族をまとめて「ドイツ人」と、11世紀になると「東フランク王国」から「ドイツ王国」と呼ぶようになります。


ハインリヒ4世が破門を解除してほしかった理由


⇒ドイツ諸侯の離反を抑えるため

★そもそもの原因
⇒「皇帝や国王の司教任命権」を教皇が否定したから。


話を深堀りします。教皇とはローマ・カトリック教会のトップです。

キリスト教の偉い人とはいえ、国王に逆らえるのかと疑問を持つ方もおられるかもしれません。


中世ヨーロッパはキリスト教の時代
で、教皇と国王は持ちつ持たれつの関係。カノッサの屈辱が起きた11世紀は、十字軍が結成されるなど教皇の権力が頂点に達しています。

教皇が国王と争っても、何の不思議もない時代でした。では、いちキリスト教徒として破門されただけなのに、なぜドイツ諸侯の離脱につながるのか?


キリスト教徒が破門されるとどうなる?


破門されるとキリスト教徒共同体から追放されます。前述の通り、中世ヨーロッパはキリスト教徒社会なので、生活できなくなります。

具体的にいうと、キリスト教徒は破門された人間との交際を禁じられます。交際とは、恋愛だけでなく全ての関係を指します。つまり、親子関係の断絶、夫婦は離婚しないといけない。王と諸侯の契約関係も解消されます。

こんな王を誰が認めるものかということで、諸侯はハインリヒ4世を見放して教皇側との関係を強くしていきます。

中世ヨーロッパは(後の絶対王政と比べて)王権が弱く、諸侯がバラバラの時代。特にドイツは統一とは程遠く、ただでさえ王権が弱いので、破門されたとあっては死を意味します。

このままだと教皇側についたドイツ諸侯のだれかが国王に任命され、自分はお役御免。それだけは何としてでも避けたかった。だからこそ「屈辱」にも耐えられたのでしょう。

なんとか破門は解除されました。(その後、ハインリヒ4世は教皇に復讐しますが、これはまた別のお話)

叙任権闘争の歴史


「カノッサの屈辱」を理解するうえで「皇帝の司教任命権」を知っておく必要があります。そもそもの原因はこれなので。

当時、キリスト教の高位聖職者は地主でもありました。国王や諸侯が土地を寄進してくれたからです。一番有名なのは、フランク王国ピピンによる、教皇へのラヴェンナ地方の寄進。

高位聖職者は土地を守るため自前の軍隊まで持ちます。より多くの土地を持つ者が地方教会の指導者、司教となり司祭が下につきます。

こういう話は西ヨーロッパではよくある話でしたが、王権が特に弱いドイツでは統一への足かせになりました。

ドイツ皇帝は、聖職者が管理する土地に空きができるたびに、自分の意のままに動いてくれそうな者を新しい司教として任命しました。聖職者としての訓練を受けていない者まで任命したのでインチキ司教が増加。

これに対し、NOを突きつけたのが教皇グレゴリウス7世だったのです。誰が聖職者を任命するのか?皇帝と教皇の争いを「叙任権闘争」と言います。

1221年のヴォルムス協約で、ドイツ国王と教皇は和解します。


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