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#15 アテネ民主政の黄金期ペリクレス時代|その実態は独裁?

こんにちは、クロノ(@chrono_history)です。

世界史における古代アテナの黄金期は、ペリクレスが直接民主政を完成させた時期だと言われています。私が学生のころは「ペリクレス時代」と習いました。

ただ、言葉のイメージだけを丸暗記するのは危険です。政治システムに完璧なものはありません。それは現代における「民主政治」も同様。

ペリクレスの時代を、「民主政の花」「アテナの黄金期」とお花畑のイメージで終わらせず、欠陥部分も含めて知っておくことが大事だと思うのです。

ということで、ペリクレスの光と影について話します。

アテネ民主政の歴史


前621ごろ   ドラコンの成文法
前594     ソロンの改革
前6世紀中ごろ ペイシストラトスの僭主(せんしゅ) 政治
前508     クレイステネスの改革
前443     ペリクレス時代(~前449)

※前=紀元前 「年」は省略


はじめ貴族が法(ルール)を独占します。その後、民衆にも分かるようにまとめられます。

戦争と政治はトレードオフの関係にあり、戦争に参加することで政治にも参加できるようになります。

この時代の人たちは、自分たちが住む都市(ポリス)を守るために戦うことに誇りを持っています。現代人の戦争参加への感覚とは違うので注意が必要です。

命がけで戦うのはいとわないが、戦費は自己負担。貧しい者は参加できません。陸の主力部隊は重装歩兵とよばれ、装備を買い揃えるのにも多額の資金がいりました。

細かいことは割愛しますが、ソロンは貴族と平民の調停者として、ペイシストラトスは貴族と平民の対立を利用しながら、民衆の政治参加への道筋を作り上げていきます。

そして貴族でありながら、貴族政を弱体化させたクレイステネスの改革をもって、民主政の基礎が完成するのです。

とはいえ、前述の通り「戦争と政治はトレードオフの関係」は変わりません。もとから貧しい者、財産を失ったものは政治に参加できません。

この構造を変えた事件、それが「ペルシア戦争」です。

時系列でいうと「クレイステネスの改革」と「ペリクレス時代」の間に位置します。

つまり、、、

前508     クレイステネスの改革
前500     イオニア植民地の反乱⇒ペルシア戦争(~前449)
前443     ペリクレス時代(~前449)

この時代の主人公は「テミストクレス」です。詳しい内容はこちらの記事を読んでください。

彼はアケメネス朝ペルシアとの戦いのポイントは、陸ではなく海と考えていました。そこで三段櫂船を中心とする主力艦隊を作りました。

三段櫂船は1隻あたりの漕ぎ手が200名必要でした。(普通の船の3倍)

主力艦隊200隻だけでも4万人(200名✕200隻)が必要です。

船を漕ぐのに特別な防具も武器もいりません。お金がなくてもパワーがあれば戦力となれる。戦いの常識、そして民衆の政治参加への意識が一気に変わります。

教科書には以下のように書かれてあります。

ペルシア戦争勝利後、エーゲ海周辺の多くのポリスはペルシアの再侵攻に備えてデロス同盟を結び、アテネはその盟主となった。アテネは強大な海軍力でほかの同盟諸国に対する支配を強める一方、国内では軍艦の漕ぎ手として戦争に参加する無産市民の発言力が高まった。これを背景に前5世紀半ば頃、将軍ペリクレスの指導のもとでアテネ民主政は完成された。

『世界史探求 詳説世界史』(山川出版社)

ペルシア戦争があったからこその「ペリクレス時代」とも言えます。ピンチをチャンスに良い例です。


ペリクレス時代の光と影


ペリクレス時代の民主政は、成年男性市民の全体集会である民会で、多数決を行い大事なことを決めました。

役人などの主要なポストはくじ引きで30歳以上の成年男性市民の中から決められました。(※将軍など一部のポストは例外としてくじ引きの対象外)

くじ引きにしたのは、そうしないと財産の多い者しか官職につけなかったからです。賄賂で票を買うヤツが続出したため。

「民主政の花」「アテナの黄金期」と言われているペリクレス時代でも、成年男性市民のみで女性は政治に参加できません。

しかも日常生活は奴隷制に支えられていることも忘れてはいけません。(人口25万人に対して1/3が奴隷)

「成年男性市民」、ここにも注目しないといけません。

「成年」「男性」は問題ないとして「市民」とは何なのか?

前451年に制定されている市民権法が参考になります。これが制定されるまでは父親がアテネ市民であれば、子も市民とされました。

しかし制定後は、両親がアテネ市民でなければ子は市民として認定されなくなりました。市民権を持った成年男子はアテネ全体の1/5しか該当しませんでした。

「将軍など一部のポストは例外としてくじ引きの対象外」
  ↑
ここも注目ポイントです。戦争はプロでないと困るのは分かりますが、
ペリクレス自身が将軍として居座ったことも忘れてはいけません。

ペルシアがまた襲ってくると民衆の恐怖を煽って、将軍職に居座り政治の中心にいたのがペリクレスです。

『歴史』の作者トゥキディデスは、ペリクレス時代を「名は民主政治。でも実は一人の支配」と評しています。

見た目は民主的ですが、見方を変えれば独裁ともとれます。ペロポネソス戦争中に疫病が流行り、ペリクレスが病死した後は悲惨でした。

衆愚政治と言われ、口だけの指導者が幅を利かせてアテネは衰退します。それでも民主政を続け一時期は回復しますが、前338年のカイロネイアの戦いでマケドニアに敗れ支配下に組み込まれます。


ローマとの比較


ペリクレスが完全悪とは思いません。アテネは政治の素人でも参加できる直接民主制でしたので、大局観のある人間が導かないととんどでもないことになります。そういう意味ではペルシア戦争時のテミストクレス、そしてペリクレスが存在したのが幸運だったとも言えます。

ただ幸運は続かず、疫病や戦争で人口が減少して有能な人材が見つからなくなります。

政治システムは違いますが、有能な指導者が必要という意味ではローマも同じでした。気質が開放的なこともあり、領土を増やしながら市民権を与えて人材を枯らさなかった。逆にアテネは閉鎖的かつ、両親がアテネ市民でなければ市民権すら得られません。


市民権を開放しすぎると、今度は市民として都市を守るという意識が薄れてしまい軍事力が低下するので、ローマが正しいとは言い切れませんが、この違いはおさえておいて損はありません。


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