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#20 ローマ帝国の東西分裂(分割)の違和感

こんにちは、クロノ(@chrono_history)です。

世界史における395年といえば「ローマ帝国の東西分裂(分割)」が有名です。

学習参考書や書籍に書かれてあるわけですが、後から見るとそうではあるが、当時はそうでもなかったという、世界史あるあるの最たる例かなと思います。

つまり、当時の人からすると、「ローマ帝国が東西に分裂した!」という大々的なニュースではなかったということです。

このあたりの話をしていきます。

まずは現行の教科書を見てみましょう。

しかし、膨大な数の軍隊と官僚を支えるための重税は、あいつぐ属州の反乱をまねいた。さらに375年にはじまるゲルマン人の大移動によって帝国内部は混乱したため、帝国の分裂を防ぐことは困難になった。そこで395年、テオドシウス帝は帝国を東西に分割して2子にわけ与えた。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は首都コンスタンティノープルを中心に商業と貨幣経済が繁栄し、その後1453年まで続いた。しかし、ローマを中心とする西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で混乱をきわめ、ついに476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ皇帝は退位させられ、ここに西ローマ帝国は滅亡した。

詳説世界史(山川出版社)

330年にはコンスタンティノープルに遷都し、新たに発行した純度の高い金貨で信用を得て、東方地域では経済が活発化した。しかしゲルマン人の大移動に直面した西方地域では、帝国の再建はならなかった。395年テオドシウス帝の死後、帝国の東西分立が固定化するなかで、西ローマ帝国は476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって皇位が廃位され滅亡した。一方、東ローマ帝国は存続した。

新詳世界史探求(帝国書院)


私のイメージに近いのは、帝国書院の教科書ですね。

テオドシウス帝(位:379~395)が帝国を東西に明確に分割したのではなく、自然に離れていったという感じ。

そもそも帝国を2人の皇帝(場合によっては2人の福帝も)で東と西で担当区域を決めて統治した事例は、以前からありました。

テオドシウス帝自身が、はじめの4年間グラティアス帝との東西分担統治をしています。

なぜ、東西に皇帝が2人いるの?

帝国が広いから、皇帝2人で統治したというのは、納得しにくい人もいるかもしれません。

領土が広くても、組織がしっかりしていれば最高責任者は1人でも良いのではないか?
そう感じる人も少ないと思います。

ここがローマらしいところなのですが、ローマの皇帝は軍隊の先頭にたち指揮するのが通例なんです。

当時のローマ帝国の場合、大きな防衛線は2つありました。
北は対ゲルマン、東は対ササン朝ペルシア。

ざっくりいうと、東と西に火種を抱えており、同時に動かれると1人の皇帝では対応しきれないリスクがありました。

テオドシウス帝の後継者(子ども)は2人、長男は18歳、次男は10歳です。

1人で統治するのは難しいと考え、自身もそうであったように東西で担当区域を分ける方法をとったと考えるのが自然ではないでしょうか?

つまりテオドシウス帝は、帝国を2つに分割しようとは思っていない。単純に前例のある東西2人の皇帝体制でやりなさいという意味合いだったと思われます。

※ちなみに東西に皇帝が2人で統治するシステムは、常に行われていたわけではありません。1人で治める皇帝もいました。

テオドシウス帝、将軍スティリコに2人の子を託す

「ローマ人の物語15~ローマ世界の終焉」(塩野七生)によると、テオドシウス帝は息子2人を将軍スティリコ1人に託しているようです。

塩野さんが本に書いてるのですが、帝国を2つに分割してしまうなら、信頼する将軍2人を呼び出して、それぞれに託すはずです。

それと東西の割り振りも気になります。この時期西も東も、防衛は大変でしたが、どちらかといえばゲルマン民族がいる西のほうが大変だったでしょう。(北の防衛線)

その西に10歳の次男を配置するのは、荷が重すぎる気がするんですよ。

教科書の記述にもある通り、東のほうが経済が安定しているので、そちらを10歳の子、西を18歳の子に分けるのが自然かなと。

ただ、これは分割前提の話で、兄弟なかよく助け合いなさい、西がピンチなら東の皇帝が、東がピンチなら西の皇帝が、こんな感じで考えているなら東西どちらでも良いとは思うのです。

仮に分割する気だったとしたら、西はあきらめて東だけを残すために、可能性のある18歳の長男に託したのかもしれませんが、個人的にはこの線はないと考えております。


まとめ

テオドシウス帝は従来通りの東西担当式をやらせようとした。

しかし、時間がたつにつれて、兄弟の仲が悪くなるとか、東が西を見下すようになったというか、心が離れていき、分割が固定化されてしまった。

なので、民衆からすれば帝国が分割されたとは思わなかったし、もっというと476年ににしローマ帝国が滅亡とされたときでさえも、ローマが滅亡したとは思ってないはずです。

なぜなら、そもそも東西分裂はしてないし、現代人のいうところの東ローマ帝国は残っていたからです。


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