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#4 歴史上「中ピピン」もいたの?
こんにちは、クロノ(@chrono_history)です。
学生時代、世界史の教科書で見た「小ピピン」、覚えている人。地味に多いんですよ。
わざわざ「小」と付けるくらいだから「大ピピン」もいるよね。じゃあ、「中ピピン」もいるの?そんな質問をされることがあります。
結論からいうと「中ピピンは存在します」ただ、大中小で親子3代というわけではありません。
まず、教科書に登場する「小ピピン」からおさらいしておきましょう。
小ピピン(714~768年)
現行の山川の世界史用語集を見ると、、、
◇ピピン(小ピピン)
カール=マルテルの子。ローマ教皇の承認のもと、751年にメロヴィング朝を廃してカロリング朝を建てた。教皇の厚意にこたえるためランゴバルド王国を攻め、奪った中部イタリアの土地を献上した。
ローマ帝国が東西分裂してから、西ローマ帝国はすぐに滅びました(476年)東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は1453年まで続きます。
小ピピンは西側の歴史に関係する人です。
ゲルマン民族が次々に自分の国を作るのですが、その中の1つに「フランク王国」がありました。
創始者はメロヴィング朝です。時の流れとともに王様より宮宰が力をつけ、最終的にはクーデターを起こして王になったのが小ピピンです。
このままだと「ただの乗っ取り」なので、支配の正当性をローマ教皇を求めます。教皇も、西ローマ帝国がなくなり、自分たちを保護してくれる国を探していました。(東ローマ帝国との関係も悪い)
タイミングが良かったこともあり両者はWin-Winの関係を築き上げます。小ピピンの息子、カール大帝は800年に教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を授けられています。
ここまでをまとめると、小ピピンは「フランク王国(カロリング朝)の王であり、カール大帝の父」です。
大ピピン(580ごろ~640年)
カロリング家の祖。「老ピピン」「ピピン1世」とも言います。
メロヴィング朝の宮宰を務めています。
中ピピン(635or640~714年)
大ピピン(ピピン1世)の孫。「ピピン2世」とも言う。
メロヴィング朝の宮宰を務める。
カール・マルテルの父。
※カール・マルテルの子が「小ピピン」
まとめ
大ピピン=ピピン1世
中ピピン=ピピン2世
小ピピン=ピピン3世
大ピピンの孫が中ピピン。中ピピンの孫が小ピピン。
小ピピンの父はトゥールポワティエ間の戦いで有名な「宮宰カール・マルテル」
小ピピンの子はカール王国全盛時代を築いたカール大帝。
今高校で使われている帝国書院の教科書「新詳 世界史探求」では、「小ピピン」ではなく「ピピン」もしくは「宮宰ピピン」と記載されています。
ちなみに、世界史に登場する「大○○」「小○○」に必ず「中○○」があるとは限りません。
たとえばポエニ戦争に登場する「大スキピオ」と「小スキピオ」は親子。「中スキピオ」は存在しません。
※大スキピオは第2回ポエニ戦争でハンニバルと戦いローマに勝利をもたらす。その子、小スキピオは第3回ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼす。
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