じいちゃんの話し
一緒に住んでいる方のじいちゃんの話し
わたしの家族は6人家族
一家の問題児といえば じいちゃん
ずっとそうだと思っていたし
そう見えていたし
そう思い込んで生きてきた
実際は そうじゃなかったかもだけど
わたしは
実家を8年前ぐらいに出て
家族とは別々で暮らしているし
たまにしか会わないから
じいちゃんのことを優しい目で見れるようになったんだと思っていた
だけど 最近拠点移動のために
実家に滞在することも多く
離れて暮らしていた時よりも
あたりまえにじいちゃんとコミットする
機会が増えた
じいちゃんはとにかくせわしい 笑
そして声が大きい
昔はよくある亭主関白で
ばあちゃんのことも母のことも
悲しませるようなこともあったんだとおもう
それは 今でも胸が苦しくなる話し
実際に幼い頃から
両親の喧嘩はほとんど見たことがないけれど
じいちゃんばあちゃんの喧嘩は
何十回と遭遇した
だから わたしは
男の人が大きな声で怒鳴ったりするのが
今でも怖いし 胸がギュッとつまる
だけど 月日が流れて今ここ
わたしが歳を重ねるのと同時に
あたりまえだけど
じいちゃんもばあちゃんも歳を重ねる
帰ってくる度に
じいちゃんばあちゃんは小さくなり
歩くスピードも落ち 耳も遠くなるし
見るからに年をとったなぁと感じる
ありがたいことに
うちのじいちゃんばあちゃんは
大きな病気も怪我もなく
まだ自分で身の回りのこと全てできるし
覚えも悪くないし
身体の節々に痛みはあっても
何不自由なく生きていてくれる
介護職についていた経験もあるから
介護する側のご家族の大変さや
複雑な気持ちがすごくわかるから
余計にこれは本当にありがたいことだなって
帰ってくる度に感じている
それでも
やっぱりじいちゃんばあちゃんは
わたしが幼い頃見ていた
じいちゃんばあちゃんより
じいちゃんばあちゃんになっていく
今は今日は元気だけど
明日コロッと亡くなってしまうことも
あるんだろうなぁって見てて思うぐらい
もちろんそれは 年齢は関係ないことだけど
若くても いつ誰が
このあとどうなるかなんてわからない
世界だって明日どうなるかわからない時代なんだから
なんとなくだけど
じいちゃんは
その刻々と近づいてくる命の終わりを
少し意識しはじめているのかなって
わたしは感じる
わたしが感じていたじいちゃんの顔は
どこか強さがあった
人は顔に出る
そんなじいちゃんの顔や表情が
柔らかくなってきてる
ふと
夕方 夜ご飯を作りながら
カウンター越しに見える
ソファに座っているじいちゃんを見たときに
あぁこの人は幸せそうだなって感じた
幼い時はじいちゃんがあまり好きではなくて
じいちゃんの顔をまじまじと
見ることもなかったなって今思う
だけど
その窓から差しこむ 夕空の光に照らされた
じいちゃんのその柔らかな表情を
まじまじと見れたとき
なぜだかわからないけれど
涙がこぼれそうになった
テレビを見ながらひとりで笑ったり
だいすきな野球を見て
これまた大きな声で観戦したり
何をしているのかわからないけれど
机に向かって必死に物書きしていたり
血圧を自分の納得する数値になるまで測り続けたり 笑
少しでも家族の会話に入ろうと声をかけてきたり
自分の壊れた腕時計を
もうええやん。 って言いたくなるぐらい
時間と労力をかけてなおす人
治ったあとは 執念でなおした!と
誰よりもはしゃぎ家族に何度も報告しまくり
そのしつこさに家族が呆れていても
あぁ〜ありがたいなぁ うれしや〜と
ひとりで喜びに満ちれるじいちゃん
いろいろ今でも
じいちゃんに対して思うことも
感じることも沢山ある
そんな全部が変わるようなことなんてないもん
だけど
わたしの見方が変わったのか
じいちゃんが変わったのか
家族の波動が変わったのか
なにが変わったのか
もしかすると何も変わっていないのか
もう それはわからないし
考えることも面倒だからしたくないのだけど
なんだか
じいちゃんの周りに流れている氣が
柔らかいものに変わった氣がしてる
また 実家を離れる
今回はしばらく戻ってくることはないんじゃないかな
だから離れる前に
じいちゃんに対してそう思えるようになったことが
嬉しいとゆうか 心地よいよ
だから
今わたしができることはやる
わたしを犠牲にしすぎず
わたしも心地よく生きれる範囲で
じいちゃんばあちゃんと共に生きるんだ
今日も愛と感謝を込めて🕊