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受けいれる


ただいま。
おかえりって言ってくれる人が沢山いた
しばらくSNS投稿も辞めてみた。
いつも繋がっているところから離れてしまうと
なんだか安心できない自分もいるなーって分かってたんだけど、大丈夫だった。
みんなが待っていてくれた。

ずっと目を閉じ動かないじいちゃんを、肉体が昇華されるまでの間何度も見た。
じいちゃんをこの目で見れるのはこれで最後なんだと思ったら、何度も何度もじいちゃんを見ておきたいと思ったから。

触れた
冷たくなったじいちゃんに何度も触れた。
何度触っても冷たかった。
あたたかさは戻らなかった。
当たり前だけど。
だけど、ちゃんとじいちゃんはここにいることを感じていた。だから正直じいちゃんが亡くなったこと、実感しにくい自分もいる。


人があたたかいってこと
体温があるってことも
凄いことなんやっておもった。
触れ合ったときに感じあうぬくもりは
生きているからこそ味わえるもの。
またひとつ、あたりまえに気づけた。


そして、話せること伝える手段があることって
生きてるからこそなんやなと感じる
だからこそ、伝えたいこと伝えさせてもらわんと後悔するなって思った。
活かしきれてない自分に歯痒さと、もどかしさまで生まれて、気持ちが先走りそうになる自分を呼吸で整え戻す。焦りは伝わる。
心はいつも凪のようでありたい。


そして、いろんな死に触れることが多い人生。
31年間にしては、死と向き合うことがおおい人生だとおもう。
じいちゃんとのお別れは今までとはなんだか違う感覚だった。
感情とゆうか捉え方がこれまでと違った。
寂しいのはあたりまえ。
だってもうじいちゃんに触れたくても触れれないし声も聞けないし話せない。

だけど、どこか冷静な自分もいて
寂しさのなかに入りこんでいない自分がいて
この死を静かに受けいれていた。
受けいれる器ができたなって感じた。
これまで日常のありとあるゆる出来事や出会い、人との関わり、人間関係やありとあらゆるメソッドやツール、数えたらきりがないくらい寄り添い向き合い続けてきたことを
やっと日常に活かすことができてきたと思ってる。
精神世界と現実社会は、別物ではなくて同じもの。分けるものではない。わけないようになってきたから、より生きやすくなった。
受けいれたうえで、自分がどうするか
抗わず、だけど自分を見失わず、どうここを生きるか。そんなことを考えていた。

そして、ばあちゃんやお母さんに寄り添い
沢山の人がお見送りに来てくれた。
ばあちゃんの背中をさすり、声をかけあうお友達達。じいちゃんを想い手を合わせる沢山の人達。
人生って美しいなっておもう。
美しいものやなっておもった。

こんな小さな田舎、そして小さな地域、コミュニティ。ここにも、助けあい寄り添いあう世界があった。それは小さな世界かもしれないけれど
この助けあいの輪が大きな輪に繋がっていくんだろうなっておもう。
ここ目の前を疎かににして大きな世界なんて創れない。そんな気がしてる。だからひとりひとりが何かに気づき、心動かされて、今自分達ができるちいさなアクションが世界中で生まれたら、必ず社会や世界は今よりもっとよりよくなるなと希望がもてた。
だから、もっと動いてこうとおもう。
今の自分もこれまで意識してやってきたことも、させて頂いたことも全部意味があるし、誰かの何かに繋がってるよ。
だけど、ここで終わりたくないからもっとみんなを巻き込んで歩き続けようとおもう。


読んでくれてありがとう。
メッセージくださった方心配してくださった方、私は元気です。元気とゆうか流れる気がものすごく穏やかで平穏なのです😌


いつもありがとう。
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