
映画「マザーウォーター」
2010年
セリフと音楽をぎりぎりまで排除して、ちょっと働いて、食べる、歩く、ぼっーとするだけの人たちを眺める映画。
合間合間に、うるさいくらいの町中の川の流れ。
キョンキョンはカフェ 小林聡美はBAR
市川実日子は豆腐屋を、それぞれ一人で営んでいる。
どこから来たかはわからないが、京都のとある街に流れてきた3人。
水にかかわる仕事、水のように、流れるように、流れに任せるように生きてる3人。
佇まいから、過去に色んな経験をして傷もあることを想像させる。
京都に行くと、川が多いなあと思う。歩いているとなんちゃら疎水とかに出会う。
上記の3人以外の登場人物たちも、京都に昔から根付いているのではない感じがする。
冒頭に一瞬出てくる女(伽奈)も、風呂屋の店主(光石研)も。
極めつけは、みんなで世話している「一歳半くらい」の赤ん坊。
どんな物も、どんな人も流れついて今の場所にいるだけで、確実性なんてない。
自分が本当にこの世に存在するのかさえ、信じられないときがありませんか?
BARの客 加瀬亮の仕事仲間が消えるエピソード。
しばらくしてしれっと帰ってくる。
周りの人間の気持ちをかき乱しながら。
人はそんなもの。それが普通、、という裏テーマ。
昔、国語の授業で習った古典を思い出しました。
方丈記
ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
奥の細道
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
いつの時代も人の本質は変わらない。
変わるけど、変わらない。
豆腐屋の店先で、できたての豆腐を食べるってやってみたい。(最初はプラスチックの豆腐ケースに入っていたけど、後半では陶器に変わる。)
「お客さんに、ここで食べてもいいか?って聞かれて、それから始めたんです。」
なんとなく始まってなんとなく続いていく、、そういうのいいですね。