WOWOWドラマ「ふたがしら」
時代劇の概念を覆しましたね。
いろんな見方ができると思います。
何にしても深いです。
今回思ったのは、罪もしくは罪悪感をどう扱うか、、。
江戸時代の窃盗団の話しで、まあ清水次郎長的な、脅さす殺さず汚い金を根こそぎ奪う、、。
その掟に背いて容赦なく人を斬るのが甚三郎(成宮寛貴)。
むごいとか、残忍とか、そういうのを超越した殺り方をするんですよ。
もうね、温度がない、表情に。
斬る前後は熱いのに、斬る時はさーっと氷点下になる。
これ、結構すごいなと思うんです。
普通の役者なら、斬る時に沸点に達するような芝居になる。そういうもんでしょ、みたいな。
だけど、斬る時に熱くなりすぎると、全体がくどくなるというのはあると思います。
それと、人を斬る時に罪悪感がある、その罪悪感を冷ますように心を冷たくしないと斬れないのかもしれません。
昭和の時代劇の人たちは、そのあたりの微妙な温度差を無意識に体現してたと思います。
成宮くんはその点で結構昭和色ありますよね。斬ることに限らず。
最近は怒り=沸点、それが当たり前みたいな芝居が多いですね。
大声でキーキー怒りながら叫ぶとか。
でも、怒りが頂点に達した時って意外と心静かだったりしませんか?
キーキー言えるときはまだそこまで怒っていない。
(もしかしたら、社会全体が怒り慣れていないからそうなるのかなとふと思いました。怒ってはいけません、的なことはよく言われますから)
甚三郎が人を斬るようになったきっかけは、
昔、やむを得ず、火盗改を殺してしまった出来事です。
殺さなければ自分と仲間がやられた。
それは理解できます。
じゃあそのときだけに留めておけばよかったのに、なぜ斬ることをやめなかったのか???
シーズン2の5話にヒントがありました。
人を殺さないと誓っていた甚三郎のかつての仲間、宗次(早乙女太一)が仲間のために人を殺す。
その罪を仲間の弁蔵(松山ケンイチ)が肩代わりするシーン。
甚三郎「一度染まった血は拭えねー」
弁蔵「いや、拭える」
甚三郎は、罪は一生消えない、自分は赦されない、という絶望を見たのかな、、そして、さらに罪を重ね、闇を取り仕切るボスになり、闇という名の絶望の中で生きていく選択をしたのかな。
絶望から這い出るより、出ない方が楽。
人は本能的に変化を嫌うから。
あるいは、罪悪感=自らへの怒り、だとすると、自分へ向ける怒りを他者に向けることで心を楽にしたかったのか、、。
どっちにしても苦しかったことには違いはない。
弁蔵と宗次は盗人ではあるけど、いい人として描かれてはいます。
けれど、死んだおかしらが、このふたりと、人を斬った甚三郎の3人でみつがしらにしたがっていたのは、甚三郎の罪は3人のもの、もしくはチームのものとして
手なずけていけという暗示、あるいは誰かの罪は、その周囲の人間の心に隠されたものでもあると考えていたからかな。
他人の罪を赦すことは、自分を赦すことでもあると。
うーん、難しい、深い。罪悪感って見なければ見えないんだけど、誰の心にも棲みつくんですよね。
見てしまえば手なずけることはできる。
でも、見ないでいると、どんどん自分を闇の世界へ誘ってしまうものなんじゃないかと。
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