新しくなりながら受け継がれていくもの 老舗劇団の魅力感じさせる上演 青年団第94回公演「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場
青年団第94回公演「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場を観劇。実は初めて観劇した平田オリザ作品が「ソウル市民」(ザ・スズナリ・1993年)*1だった。当時見た演劇作品としては極めて刺激的な舞台で、大きな衝撃を受け、続けて韓国公演も予定されていたことから現地でどのようにこの作品が受容されるのかについて興味を持ち、追いかけて観劇してしまい、それが現在まで30年以上続いている青年団との付き合いの始まりとなった。その意味でもこの作品には大きな愛着を持っている。
そして、その時の韓国公演の観劇レポートを「演劇情報誌Jamci」に執筆したことが経緯となり、演劇コラム「下北沢通信」を同誌に連載することになったことで、現在に至るまで演劇についての評論活動を継続している。そういう意味でも忘れがたい作品なのである。
「ソウル市民」には「差別は悪いことだ」ということを自覚している(つもり)の善意の人物たちが登場する。だが、ステレオタイプな悪意や偏見にもとづく差別を描写するのではなくて、善意の人たちのなかに潜む無意識の差別の構造を会話のなかに散りばめていくことで、「差別するのは悪いことだからなくそう」などという単純な善意では解決することができない根深い差別の構造を淡々と提示していく。
差別の構造は平田の演劇のなかではある日の午後の茶の間(中央にテーブルが置かれた洋間ではあるが)の2時間弱の時間という歴史の大きな流れから見ればほんの一瞬といっても過言ではない短い時間のリアルタイムの切り取りで示される。
舞台で描かれるのはソウル(当時の呼称は漢城)で文房具商を営む篠崎家のある日の出来事だ。そこには篠崎家の人々以外にも居候している書生や出入りする取引先、ここで働く女中たち(日本人と朝鮮人がいる)といったそれぞれ階級や出自の異なる複数のサブグループが登場。彼らが交わす会話のなかからその複雑な関係性を浮かび上がらせていくのが、平田の方法論なのだ。
篠崎家では朝鮮人の女中も日本人と一緒に平穏に暮らしており、そういう意味では彼らは差別の意図は持たない「善意の人々」なのだが、例えば篠崎家の長女が女中も同席している場で「朝鮮語は文学に向いてないんじゃないか」と言い募ったり、それを「和歌の歴史がないんだから仕方がない」などと理由づけたり、そこでは現代人の感覚からするとヘイトスピーチとも取られかねないような議論が平然となされている。現代人である私たち観客はなんともいえない居心地の悪い思いをさせられいたたまれない気分になるわけだが、当時の人にとっては舞台に登場する朝鮮人の女中も含め、こうした言説が無意識の差別の構造に根差しているということに気も付いていない。それまでの演劇では差別を描くということになると直接差別的な行為が登場人物にを振るわれたりすることが少なくなかったが、平田はそれは差別を糾弾しているようでいて、解決するという方向においては何の役にも立たなくて、こうした不可視の差別構造について観客の気づきを与え、そのことについて各自で考えてもらうことこそが一歩目だと考えていたのではないかと思う。
青年団の公式サイトによれば「ソウル市民」はこれまでいろんな形で20回以上の公演を重ねてきている青年団の代表作といってもいいレパートリー作品だが、これまで出演を続けていた山内健司、松田弘子といった初演以来のキャストが今回は座組みから外れている。山内、松田は前作の「日本現代演劇盛衰史」には出演していたから、これは彼らが第一線から退きつつあるというのではなく、配役の若返りを意図的に行いながら、作品の継承を行っているということだと思う。
松田が長年演じていた役は森内美由紀が担っていて、細かく見ていくと役作りのアプローチはかなり異なるのだが、作品全体での違和感はない。いま私がしたように意図的に思いださないとこの役はもとから森内が担っていたようにしか感じない。こういうことはこの舞台の個々の役柄についてそれぞれあって、青年団ではレパートリー(再演)作品も多いので、筋はすでに知っているそういう作品を見る際に感じる魅力のありようとなりつつある。そういう意味では私もこの作品を三十年近く見続けていると歌舞伎を見るのと同じような見方になっているのに気が付き愕然とさせられた。
そういう意味でキャストのなかで光っていたのは篠崎家の当主の役をなんの違和感もなく演じていた永井秀樹の存在かもしれない。私の中では彼が非常に若いころに軽妙なお調子者キャラの役を演じていた印象が強く、その感覚がまだ残っているのだが、気づけばかつての山内健司や志賀廣太郎のような青年団を代表する俳優になりつつあるんだということに遅すぎると本人には言われそうだが、今回の舞台で気が付いたのだった。そして、これこそ同じ劇団を見続けていることの魅力だと感じたのである。