ハナズメランコリー(HANAʼ S MELANCHOLY)vol.1「人魚の瞳、海の青 Eyes of the Mermaids, Blue of the Sea」@新宿眼科画廊 スペース地下
この舞台は実は全然これまで知らなかった人の作品なのだが、メールで招待状をいただき、見ることができた。そのため、どういう人がどういう枠組みで作っているものなのかをあまり知らないで見始めたのだが、結果的には余計な予断があまりなかったのがよかったのかもしれない。
童話の「人魚姫」が下敷きになっている。これだけでいいおっさんである私としてはハードルが高い。思わず腰が引きぎみになってしまうが、すぐにそんなにメルヘンチックないものじゃないというのが分かってくる。
少女たちが何人か施設のようなものに閉じ込められている。看守兼先生のような女性がひとりいるが、残りの出演者は皆幼い少女を演じる。登場する人物は日本人の名前を持つがその場所がどこなのかは作品中では具体的に示されるわけではない。描かれている世界の印象はどこかSFっぽく感じることがある半面、何かの現実がメタファーとして語られているのかもとも考えた。
最初に連想したのはアウシュヴィッツの強制収容所のような施設だったが、収容されているのが少女だけで初潮を迎えるとここから出されて他所に移されるという物語上の設定を考えると「性的なるもの」「成熟して大人になること」への意味を新世紀エヴァンゲリオンのように持たせたような寓意的な物語のようにも思われた。
次に想起したのは日本に翻案されてドラマにもなったカズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」と小松左京の短編「召命」。特に前者は医療目的の臓器提供のため作成されたクローンの若者たちを育てている施設の物語だが、作品全体に流れる空気感には少し似たところが感じられ、こちらは少し意識しているかもしれないと感じた。
作品を見てしだいに理解されてくるのは少女たちが共同生活を送っているこの世界では少女たちはここから抜け出すことが出来ず、外部には生きていけるような「世界」はないと教えられている。代々引き継がれていることとして年長の少女が絵本を年下の少女に朗読して読み聞かせるという習慣がある。だが、王子に裏切られて泡になって消えてしまうという物語の残酷ともいえる結末の部分は年長の少女の手により破りとられてしまっていて、年少の少女にそれが伝えられることはない。この舞台では施設に閉じ込められた少女たちの境遇が「人魚姫」と二重写しに描かれていく。そういう意図はいっさいないと作り手からは非難されるかもしれないが、性的なるものが隠蔽されているようなこの閉じた世界から逆接的に生まれてくる少女ら相互の関係性の中から、最近人気の百合系SFを思わせるような危うい魅力の匂いが感じとれることだ。
実は終演後出口で配られていたチラシではじめて分かったのだが、この舞台は実はナイジェリアで実際にあった人間の赤ちゃんを人身売買するという「赤ちゃん工場事件」というのが基になっているということのようだ。
こうした問題はアフリカやインドでは大きな問題となっているようで、ひょっとしたらカズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」も実際に起こったこうした事件が発想の基になっていたのかもしれない。
こうしたアフリカなどでの出来事は実はヨーロッパでは取り上げられることが多いが、日本ではなかなか取り上げられないし、ドキュメンタリー的に取り上げてもぴんとこないことがほとんどだ。海外の戯曲などを上演した際にこうした問題が主題となったものだと実感を持って観劇するのは困難だ。
その意味ではそうした事実が根底にありながらも舞台を寓話的な虚構とも受け取れるようにした今回の上演は私に取ってはアクチャリティーのあるものであった。 作者の一川華、演出の大舘実佐子はいずれも女性によるコンビのようだが、最近よくある女性作家・劇作家による作品群と比べると質感が硬質で「こういう表現がどこから出てきたのか」と思う独自性を感じた。