健在ぶりを見せた京都の鬼才・司辻有香によるひさびさの新作 大学後輩らの尽力で実現 「罵倒の作法」03 司辻󠄀󠄀有香 新作上演@三鷹SCOOL
京都造形芸術大学出身の劇作家・演出家、司辻有香。若くしてOMS戯曲賞、京都芸術センターの演劇計画で立て続けに佳作を受賞。新進気鋭の劇作家として注目されていたが、その後活動を中断していた鬼才のひさしぶりの新作「うぶごえ」がやはり同大学出身の木村悠介の演出、三鬼春奈の出演により上演された。作家を性差によってのみ区別したりするのは批評としてあまり適切なこととは言えないと思ってはいるのだが、こと司辻に関して言えば彼女の作品は女性作家であることも含めて彼女の固有性と切り離しがたい。それゆえ、彼女自身のことに触れずに作品についてどうこういうのは難しいという批評にとっての難題を抱え込んでいる。
10年以上前に京都で見た辻企画「愛−在りか−」@人間座スタジオという舞台では以下のように書いた。
今回見た新作「うぶごえ」も女性の一人称的な演技表現が彼女自身のことだけでなく、彼女がモノローグで話しかける対象として(おそらく男性である)他者が浮かび上がってくるという作品の基本的な構えには構造的な共通点があり、受ける印象にも近しい部分がある。そして、その関係が「死」を媒介としているという意味では「愛−在りか−」と「うぶごえ」には姉妹編のような部分がある。
ただ、十数年の時を経た変化というのも当然あって、「愛−在りか−」での仮想の対象となっていたのが恋人関係にある男性に収れんされていたのに対し、
こちらは何かで亡くなった父親(自殺なのかもしれない)、主治医かもしれない「先生」という人、そして性的な関係もあったかもしれない男性など明らかに複数の人物がいて、時折意図的に混同されたり、同一視されているような時もあり、通常の演劇における第三者の描写のように輪郭がはっきりしてはいないのだが、ここでは以前にはなかった父親が大きな存在となっている*1ように感じられた。
そして、もうひとつの大きな違いはこれは松田正隆とのアフタートークで演出の木村悠介が話したことであり、観劇中にはそこまで明瞭には分からなかったことだが、この作品の戯曲にはパート1、パート2の2つの部分があり、モノローグとして構築されたパート1に対し、日常的な描写なども含むパート2があり、パート2の部分は俳優により、そのテキストが読まれていくような体で表現されたということ。ここには例えば父が亡くなった後、それと代わるような存在として弟が拾ってきたという「食パン」という名前の猫の描写も現われ、作中での一種の癒しにも感じられるようなアクセントになっていること。こういうのは明らかに以前の作品とは変わってきていると感じた。
作品中にも自傷や自殺への願望のようなものが立ち現れてきているが司辻󠄀󠄀の場合にはそれが現実の彼女にも起こっていることの反映であるのだということが否定しがたい。若くして評価され、才能豊かであるのが明らかであるのにどちらかというと寡作にとどまっているのは作品創作に向かう際の本人の負担の大きさがなかなか十全な形で舞台製作に向かうことを困難にしていたということもあるのかもしれない*2。
そういう意味では今回は新作戯曲の執筆が大学の後輩である木村悠介の委嘱により行われ、興行上のリスクを彼がすべて引き受けることで、司辻が戯曲執筆に専念できた事で初めて公演が可能になったといってもよいであろう。
事実、パート2部分の執筆が上がるには公演の直前になるまでかなり苦悩したという跡が舞台からもうかがえるし、そうした状況を乗り越えてしかも京都から離れた東京でこの作品が見られたのは奇跡的な出来事だったかもしれないと思う。
*1:より言葉を選んでいえば存在してないことの意味
*2:特に以前は作・演出さらには劇団主催も一手に引き受けていたゆえの困難さがあったことが想像される
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