青年団第79回公演「日本文学盛衰史」@吉祥寺シアター
平田オリザ率いる青年団は2020年以降の兵庫県豊岡市への劇団拠点の移動をにらみ、新作の『日本文学盛衰史』(吉祥寺シアター、2018年8月)、自らの代表作である「ソウル市民」「ソウル市民1919」の連続上演(こまばアゴラ劇場10・11月)と年明けには本拠地、こまばアゴラ劇場で平田オリザ・演劇展vol.6 として、新旧8演目を一挙に上演、東京での劇団活動の集大成を思わせる精力的な活動を展開している。
なかでも新作『日本文学盛衰史』は出演者24人にも上る大作(登場人物はそれ以上)で、これを群像劇として今上演できるのはベテランから若手までこの劇団の俳優らの充実振りがあればこそだと思う。詳細は不明だが、青年団は2019年以降、兵庫県豊岡市への本拠地の移転を発表しており、こまばアゴラ劇場や演出部など東京に残る機能もあるだろうが、この新作には現体制での集大成的な意味合いもあるのではないかとも思われたのだ。
志賀廣太郎、山内健司らの青年団を代表する俳優たちの存在感はもちろんだが、今回は女優陣の達者さにも舌を巻いた。それぞれが男性役も演じるほか、チェルフィッチュ風の演技で樋口一葉(小瀧万梨子)を演じたり、宮澤賢治(兵藤公美)をラップで演じるなど、下手をするとただのコントになってしまいかねないようなタスクを彼女らはアクロバティックにこなしてみせた
この舞台にはこれまで平田オリザ作品でタブーとされていたことが、数多く盛り込まれていた。異色作といっていいが、平田の作家としての本質に深くかかわるような要素もいくつも見ることができる。作家性が強く刻み込まれた平田らしい作品にもなっているともいえよう。原作は高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」だ。 平田作品としては珍しい4場の構成となっている。それぞれの場が明治を代表する4人の文学者(北村透谷=1894年没、正岡子規=1902年没、二葉亭四迷=1909年没、夏目漱石=1916年没)の葬儀の場を取り上げており、7年ほどの間隔で北村透谷の葬儀(1894年)から夏目漱石の葬儀(1916年)までの約21年に文学で起きた出来事を俯瞰的に描いている。
こうした構成はいままで平田作品の中ではあまり見られなかったが、『日本文学盛衰史』の後に『ソウル市民』『ソウル市民1919』を続けて上演されるのを観劇して、この2作を始め1909年を描いた『ソウル市民』から始まる4部作が、10年ごとにソウル(当時は漢城)にすむブルジョワ、篠崎家の応接間を定点観測し、日韓併合時の半島の歴史を浮かび上がらせた趣向が今回の構成を先取りしていたのではないかということに気がついた。
平田の作品は通例、リアルタイムに特定の時期、場所をフレームのように切り取り、そこで起こっている現象の共時的な構造を提示していく。『ソウル市民』4部作もそれぞれ単独の作品としては例えば第1作の『ソウル市民』は当時朝鮮の首都であった京城の日本人商家である篠崎家の客間でのある夏の日の午後の出来事を描いたものに過ぎない。平田はその中でさりげない描写の中に当時の日本人が朝鮮人に持っていた無意識の差別的構造を示していく。「ソウル市民1919」も同様に篠崎家の客間での出来事が描かれるが、描かれるのはほぼ10年後の午後のリアルタイムな時間だ。『ソウル市民』では日韓併合直前の様子が描かれたが、ここで描かれるのは1919年3月1日の出来事。いまこの現代に生きている我々にはこの日付が韓国の建国史とって重要な三・一運動が起きた日だと分かるが、当時の人にはもちろんそうした認識はなく、他の日と何ら変わることのない或る日の午後の日常が演じられる。
『ソウル市民』4部作は日本と朝鮮の四十年間の歴史を『日本文学盛衰史』は二十年近い年月を通時的に提示することで、日本文学における口語体文学(言文一致)の歴史を「内面の発見」(北村透谷)、「写生文の発明」(正岡子規)、「自由な散文」(二葉亭四迷)そしてこうした流れのなかでそれぞれの文学を生み出した田山花袋と島崎藤村の苦闘、そして明治期の口語体文学を完成させ、戦後文学を準備した夏目漱石と森鴎外。時代の異なる4つの葬儀を連鎖して描くことで提示することで提示することに成功した。
葬儀の親族として挨拶を行うのが必ず能島瑞穂、来賓挨拶が必ず志賀廣太郎なのだが、二人とも役柄はそれぞれ毎回違うのだけれど、その声が音楽的に感じられるほど素晴らしくて感心させられた。明治のヒロイン、中村屋の相馬黒光を演じた藤松祥子もまさに「青年団のヒロイン」を感じさせ魅力的だった。
演劇からの引用も多い。大竹直と島田曜蔵はある文豪の役*1を演じるのだが、『ゴドーを待ちながら』のウラディミールとエストラゴンのように舞台に居残り続ける。ゴドーとは違い最後の最後に待ち人はやってくるのだが、さらにその先に河村竜也演じる「ある人」*2がやってくる。平田オリザ版メタシアターの極致。代表作である『東京ノート』ではフェルメールがカメオブスキュラを使って世界を写し取ろうとした過去の歴史と青年団すなわち平田オリザの方法論についてのメタファー(隠喩)として用いた。この『日本文学盛衰史』でも、明治時代の描写の中に随所に「現代」を取り入れて、明治と現代の重ね合わせを行っている。小説『日本文学盛衰史』出版当時の最新の世相を取り入れたと思われるが、平田は従来なら例えばたまごっちという固有名などは時を経れば古くなるため使用することは避けてきた。ところが今回は観客にピンと来なくなってしまっているような出来事が描かれている場合はそれを現代の事情に合わせて書き換えながら、「現代」と「明治」をひとつながりの会話のなかでシームレスにつないでいくという原作の持つ仕掛けを取り入れて両者がまったくかけ離れた出来事ではないということを印象づけてもいく。
平田がこの作品でこうした手法をとる動機には原作小説の忠実な再現以上にもうひとつ大きな目的がある。それは「現代」と「明治」に起こった出来事の相似性を浮かび上がらせることだ。両者が双方のメタファー(隠喩)として響きあうような構造を提示し、そのことで言文一致を獲得しようと格闘する明治時代の文学者と自らが手がけてきた演劇の手法「現代口語演劇」を二重写しによって見せようという意図が感じられるのだ。
全体を4場にしたことや、時事問題を取り入れたことなど、平田はこれまで禁じ手としてきたことを一気に解禁した。これは原作がそうなっているからということがあるかもしれない。原作小説で高橋源一郎は「日本文学盛衰史」の表題の通り、明治時代の文学者の群像を描きながらも森鴎外と夏目漱石の会話に突然次のようなやりとりを挿入してみせる。
「森先生」
「なんですか」
「『たまごっち』を手に入れることはできませんか。長女と次女にせがまれて、どうしようもないのです」
「『たまごっち』ですか。娘のマリが持っていたと思います。確か新『たまごっち』の方も持っていたようだ。どこで手に入れたか訊ねてみましょう」
映画「幕が上がる」の映画評に「平田オリザの演劇の特徴として異なる複数の階層が互いにメタファー(隠喩)のように響き合う重層的な構造が平田の作劇の特徴」*3と書いたが、今回の「日本文学盛衰史」は典型的にそうした構造をとる。
映画 「幕が上がる」では主演をしたももクロのこれまでの歴史が劇中の演劇部の体験した出来事と重なり合うように作られていた*4が、「日本文学盛衰史」で描かれる小説家たちの言文一致体の獲得への格闘は平田らの現代口語演劇の確立と重ね合わせられている。それまでの平田の作風を知るものには驚きを禁じえない部分も多いが、かつて「東京ノート」で披露された「作品として世界を写し取るというのはどういうことなのか」という平田の根源的主題に回帰したという意味では「どこを切っても平田オリザ」というきわめてらしい作品ともいえる。
*3:「ももクロ×平田オリザ」論 「幕が上がる」をめぐって――関係性と身体性 対極の邂逅synodos.jp