平成の舞台芸術回想録第二部(5) ナイロン100℃「カラフルメリィでオハヨ ―いつもの軽い致命傷の朝」
ナイロン100℃「カラフルメリィでオハヨ」(1988年初演)はケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)の代表作といっていい作品であろう。劇団健康時代に初演。その後、ナイロン100℃になってからの再演と合わせて4回上演され、KERA作品の中でも再演回数の多い作品だが、上演は2006年が最後になっている。
KERAが「自分にとって 唯一の自伝的演劇」と話すように執筆時に病院で最期の時を迎えつつあった自身の 父親の看病をしながら、その病院で書き上げたという経緯もある。それだけに「死」という主題に正面から 真摯に向かい合ったKERAにとってはワン・アンド・オンリーな作品となっている。
認知症の老人を抱えた家族と、病院からの脱走を計画するちょっと変わった患者たちを交互に描いていくこの芝居は、見ているうちに、老人と脱走する少年が同一人物であると分ってくる。はっきりとは説明はないが、病院のおかしなシーンはすべて老人の心のなかで展開されているインナーワールドの世界*1なのだ。
認知症の父を演じた山崎一、主人公のみのすけの演技が記憶に鮮烈に残っている。KERA の作品だからもちろん、まるでザ・ドリフターズのコントのような本当に馬鹿馬鹿しい入院患者のシーンなどそれこそ抱腹絶倒に 笑えるのだけれど、この作品はそれだけじゃ終わらなくて、いつの間にか気がついたときには「人間が生まれて死ぬということ」について、いろんなことを考えさせられる深い芝居なのだ。
ナイロン100℃といえば「センスの高い知的な笑い」が代名詞のようなところもあり、その笑いの種類もスラップスティック(どたばた)からシュール、ナンセンスまで千差万別といえる。それゆえ、笑いのセンスのその一点においてはこの舞台にはややベタ過ぎないか、という違和感もあって、「なんでこんな風なんだろう」と思ったりもしたのだけど、そうしたバカバカしいおかしさそのものが、人間が生きていくことのおかしさ、哀しさと重なり合って最後にせつなさに転化していくのが「特別な作品」ゆえともいえるだろう。
KERA の舞台は最近は自作のみではなく、最近はチェーホフから岸田國士、別役実の上演などでも水準の高い舞台を作り続けている。この世界にはとてつもない傑作も書くが、時として???の舞台が続くような人とコンスタントにレベルの高い舞台を作り続ける人がいるが、KERAは典型的に後者のタイプで、いつ舞台を見にいっても満足をさせてくれる。
それだけにこの1本を選ぶのは難しく、チェーホフの「かもめ」*2はこの作品の上演史に残るような名演だったとは思うけれど、まさかこれをもってKERAの代表作というわけにはいかないであろう。
タイムスリップものコメディーとして「1979」は忘れがたい印象を残している。大学の映画研究会の人々を描き出した群像会話劇の秀作「カメラ≠万年筆」*3も個人的に大好きな作品だが、これもKERAの代表作というのはいささか躊躇してしまうのだ。
小さな嘘を積み重ねて壮大な虚構を立ち上げる「薔薇と大砲 ~フリドニア日記 #2~」もKERAでなくては書けない作品で、最近のKERAの作品群はこちらの系譜に当たる作品が多く、重要な作品とは思う。だが、それでも「この1本」ということになると個人的な思い入れ*4の強さもあって「カラフルメリィでオハヨ」を選んだのである。もう十数年も再演されていないのはKERA自らのこの作品への思いもあるのだろうし、ひょっとしたら自分自身の結婚のこともあるのかもしれない。本人以外には知ることはできないが、観客としてはぜひもう一度見てみたい作品なのである。
Uchoten (有頂天) - Another Morning of Mildly Fatal Wounds (いつもの軽い致命傷の朝)
発売日: 2006/04/01
メディア: 単行本
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*1:村上春樹の読者なら「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985)を想起するかもしれない。こちらの方が少し早いが前述したような舞台なのでおそらく直接の影響関係はないのではないかと思う。
*2:simokitazawa.hatenablog.com
*3:simokitazawa.hatenablog.com
*4:もう手元にはないのだが、初めて当日パンフに作品解説のようなものを書かせてもらいおおいに励みになった。