岡田利規×木ノ下裕一によるシン・木ノ下歌舞伎 南北原テキスト生かしながら批評的距離とる演出 木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」@池袋あうるすぽっと
木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」@池袋あうるすぽっと鶴屋南北の「桜姫東文章」の通し狂言(六幕)をチェルフィッチュの岡田利規の脚本・演出により木ノ下歌舞伎が上演した。岡田利規と古典演劇との関係でいえば最近はいくつかの作品で「NO THEATER」という現代能を標榜した作品群を上演したが、歌舞伎との付き合いはこれが初めてといえるかもしれない。
歌舞伎の演目には能の原作を本歌取りしたようなものもあるが、鶴屋南北による「桜姫東文章」はそういうものではなく*1、これを岡田がどのように料理するのかについて興味を引かれての観劇となった。
ところどころにチェルフィッチュ特有のセリフ回しや身体所作が挟み込まれるが、これはそれが今回の表現スタイルにおいて、本質的なものというよりはそういう期待にも答えますというような観客サービス的な趣向と感じた。確かに舞台のアクセントにはなっているが、岡田自身最近の作品(特に能の様式をなぞった作品)ではほとんど使ってないわけだし、この作品の上演演技体が原作歌舞伎のセリフ回しに近い部分から現代口語演劇に近い演技まで、さまざまな演技体のミクスチャーになっていることもあり、チェルフィッチュの演技体もそのうちのひとつでしかなくて、セリフパロディの色彩も帯びて感じられたのだ。
木ノ下歌舞伎による鶴屋南北作品では杉原邦生演出による「東海道四谷怪談」*2があり、これは演出を変更しながら何度も再演されたこともあり、木ノ下歌舞伎の代表作と言ってもいい。この上演では原テキストで「生世話」とされている町人の世界を描いた部分を現代口語演劇風の演技に「時代物」として描かれる武士の世界を一部分歌舞伎風の語り口を残した演劇スタイルで演じさせるなど趣向はあったが、物語自体はオーソドックスな解釈で普通に上演が楽しめるものとなっていた。
これに対して、岡田利規は初演時の原テキストを重視し、現在の歌舞伎上演ではカットされてしまってことが多い「郡司兵衛内の場」を復活させ、初演時の全六幕に戻して上演したうえで、現代人の視点から見ると理解がしにくいような場面についてはテキストを生かしながらも批評的な距離をとることで、現代の我々にも理解しやすく再構築している。
舞台を見始めてまず最初に気が付いた特徴は舞台の上手奥に最初からいて生演奏を続けている荒木優光の存在である。KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「未練の幽霊と怪物」(岡田利規作・演出)では同じような役割を内橋和久が果たしていたが、この木ノ下歌舞伎では荒木が歌舞伎における下座音楽の役割を果たし、それぞれの場の空気感もこの音楽によって規定されていくような構造となっている。
rohmtheatrekyoto.jp
rohmtheatrekyoto.jp
*1:このように書いたが木ノ下裕一と岡田利規の対談にあるように「隅田川」と「清玄桜姫」を下敷きとしているという意味ではまったく能と関係がないというわけではない。