日本語が母語でない俳優による会話劇 新しい試みだが分からない部分も チェルフィッチュ「宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓」@吉祥寺シアター
チェルフィッチュ「宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓」@吉祥寺シアターを観劇。チェルフィッチュが最初に有名になったモノローグによる「超現代口語演劇」でもなく、最近力を入れていた「NO THEATRE」でもない新しい試み。ただ、その意図が十全な形で具現化されているのかというとそうは思えないし、現時点ではまだよく分からないというのが観劇しての正直な感想であった。
コンセプトとして日本語が母語ではない外国人の俳優に会話劇をやらせるというのがあるようなのだが、とりあえずそれで何が起こるかというとセリフから日常的なディティールやニュアンスがすべて消え失せてしまう。こうした試みはある時点以降の松田正隆のマレビトの会が行ってきたことと共通点があるようにも思われるが、マレビトの会との大きな違いは使用される言語テキストの質感の違いだ。松田正隆あるいはマレビトの会のテキストは日常的に使用されている現代口語に近いもので、そこではセリフのニュアンスのディティールを捨て去ることで、観客が直接は俳優によっては表現されていないそれを各自が想像力によって補うような状況を作り出すことにある。
ところが今回の「宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓」は舞台設定が宇宙船に集められたそれぞれの所属する文化的な背景がまったく違う登場人物が会話をするのだが、その内容は「地球の音楽と宇宙の音楽はどのように違うか」とかかなり理屈っぽいものであり、その問い自体には一種のSF的な思考実験のような設定の面白さを感じないわけではないが、会話を続ければ続けるほど共通の理解は得られずすれ違っていくというような様相が延々と繰り返され、観劇していて集中力が持続できずに次第にキャッチアップしていくのが困難な状況に追い込まれてしまった。
この方法論による作品を見たのは今回が初めてなので、もう少しいくつのサンプルを見てみないと分からないというのが正直なところで、ただひとつ分かるのは岡田利規がこれまで誰も踏み込んだことがなかったような新たな表現領域に踏み込もうとしているのかもしれないという感覚だ。現時点ではよく分からないが刺激的な公演ではあったというのが、正直な感想。ここから岡田がどんな次の地平を見せてくれるのか。とりあえず次の作品にも注目してみたい。
りん (id:simokitazawa) 3日前
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