演劇と映像 二人の女性アーティストによる共同配信ライブ 宮崎企画「新作短編『回る顔』」@ライブ配信
宮崎玲奈(ムニ)は青年団演出部のニュージェネレーションのひとり。 今年1月に上演された前作 『つかの間の道』は若手の作品とは思えぬほどの完成度の高さに舌を巻いたが、今回コロナ禍で中止となった公演を受けて無観客配信となった『回る顔』も期待通りともいえる彼女らしい作品となった。
前回作品で宮崎作品をこのように評したがこれはそのまま今回の「回る顔」にもそのまま当てはまるといっていいかもしれない。 さらに言えば演劇における「表現すること/表現しないこと」に加えて、今回は映像撮影の小宮山菜子*1が宮崎のそういう美学を共有して、「フレームの中/フレームの外」という切り取りにより、戯曲、演出の段階ですでにあった「表現すること/表現しないこと」を二重構造にして見せているのが興味深い。
五反田団の前田司郎には死者の世界と往還する一連の地獄巡り譚を思わせる作品があるが、「回る顔」もそれと類似した作品世界を持っている。 この舞台は二部構成でどちらにも黒澤多生演じる男と南風盛もえ演じる女が出てきて、故郷に帰るらしい女に男がついていって列車に乗って旅をする。 その旅は電車の吊り輪を二人がそれぞれ持ちながら会話する場面に象徴されているが、この電車での移動も、その後出てくる自動車での移動も具象的に考えるとおかしなことになってきかねないので、移動の具体的な描写というよりは浄瑠璃芝居における「道行き」のような演劇的な仕掛けに近いかもしれない。
男はこの旅によりゆるやかに「死者の世界」にいざなわれていく。 危篤状態の女の父親が入院している病院に行く描写はあるが、その次には病室で男は意識がないはずの女の父親と会話を交わす。
これは実際にあった現実の描写というよりはもはや「死者の世界」における死者との対話に近いのであって、その後、男は女にいざなわれて山奥にある川のほとりで何か正体の分からぬ物の怪のようなもの(けもの)と出会うが、これが宮崎の描写では実体がはっきりしないうえに小宮山菜子のカメラはその姿の一部しか映し出さない* 2。 演劇の中に存在する「余白」とフレームの外側の描かれない部分という違いはあるが、この二人のアーティストは「描く部分/描かない(で想像にゆだねる)部分」において感性が共鳴しあう部分があり、この作品ではそれが響きあっていたのではないか。
この後、この二人による別バージョンの有料配信映像も予定されているということで、それも楽しみだ。
ムニ/宮﨑企画YouTubeアカウント(https://www.youtube.com/channel/UCKMSiXnHbb-LxlJO2Acd0vQ)より配信いたします。
アーカイブは翌日からYouTubeチャンネル「ムニ」でご覧いただけます
https://www.youtube.com/channel/UCKMSiXnHbb-LxlJO2Acd0vQ
※10月21日(水 )までアーカイブをご覧いただけます。
simokitazawa.hatenablog.com
simokitazawa.hatenablog.com
www.youtube.com
*2:配信終了後の宮崎と小宮山のトークも刺激的だった。 何を撮って、何を撮らないか。 ここで書いたようなことは意図的なこだわりだったことが語られている。