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夢の国嫌いの行く末|つれづれなるエッセイ

小さい頃、何度か親にディズニーランドに連れて行ってもらった。

ディズニーランドは私にとって何もかもが新鮮で、
嬉しくって、はしゃいで、はしゃいで、はしゃぎ続け、
いろいろな見たことのない楽しそうなものにわくわくし続けた。
そしてその日一日にめいっぱい詰め込まれた幸福感を
一旦忘却し日常に戻るよう身体が自動低速運転するかのように
帰り道は親が運転してくれる車で眠りこけた。

あの頃の私は、無邪気そのものだった。
純粋で、はつらつと、ぴかぴかしていた。


思春期になり、そんな純粋な私は、私自身も知らない間に失われた。

”ディズニーランドなんてまやかしだ。”
”偽りの楽しい空間で遊び、なんで喜ばなきゃいけないんだ”
と本気で思っていた。
クラスメイトとの関わりを最小限にして、休み時間は本を読み続け、
写真を撮られることを拒んだ。

ひたすらに冷めた人だったと思う。

同級生たちの無邪気さが嫌だった。
嫌だったけど、うらやましくもあった。
感情を無邪気に表現できる人たちがうらやましかった。
ディズニーでカチューシャをつけて喜ぶ人たちには
死んでもなれないと思っていた。
楽しげに写真を撮って喜ぶ人にも慣れないと思ってた。
別に医者から禁止されているわけでもないのに
素直に笑い、喜ぶことができなかった。したいと思えなかった。


今書きながら振り返ってみると、
ただ自分の内にある感情の出し方を知らなかっただけのような気がする。

感情があるのに、子どもの頃のように無邪気に表現することはいや。
いやだけど、いやなのに、今まで生きてきて無邪気な表現しか
してこなかった人間が他に表現するすべを持ち合わせているわけない。
周りの人を参考にすることもできなかったように思う。
気持ちをどう表現したら自分が心地よいのか、ちょうどいいのか、
と照らし合わせながら感情の出し方を学べばよかったのに、
なかなかに時間を要した。
大学2年生くらいまでかかったんじゃないかな。。

家族や学校の人たちを見ていて、いろんな人がいたけれど、
私が見ていいなと思う表現をしている人は少なかった。
子どもっぽく無邪気に表現することは死んでもできないし、
感情をあまり出さない人も好きじゃなかった。
感情を醸す人が好きだった。
話すに感情をそっとじんわり乗せて話す人。


そんな私も少しずつ会話が楽にできるようになってきたところで、
一昨年だったか、招待券をもらいディズニーランドに行ってきた。
中学2年ぶり、だから15年ぶり?に行ったんじゃないかな。(恐ろしい…)
半分楽しみ、半分楽しめるか心配で臨んだけど、結果すごい楽しかった。

たとえディズニーランドが偽りの楽しい世界であったとしても、
私は昔と違ってちゃんと楽しめることができた。


世界の仮想敵がひとつ、なくなったような気がした。



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