#赤木さんを忘れない
このタイトル自体、悔しくてやるせなくなる。
”再調査してほしい”という世論を盛り上げるために、相澤冬樹記者や赤木さんの奥様が提案してくれたテーマだ。協力したいと思う、その一方で・・・そもそも、と私は思ってしまう。どうして相澤記者に、奥様に、私たちが赤木さんを忘れてしまう心配をさせなきゃいけないんだろう、と。傷ついて、立ち直れるかどうかぎりぎりのところで踏みとどまっておられるだろう赤木さんの奥様が心配せずとも、ほんとは私たち国民のほうが暴動を起こすべきだ。みんなで声を上げるべきときだ。
赤木さんのこと、何か応援したいと思っていたので、Changeの署名サイトが立ち上がったときはうれしかった。奥様の毅然とした文章に感銘を受けたし、刻一刻と更新される名前を眺め、日本にもこんなにたくさんの良心があるのだと勇気付けられた。家族や友人たちにも署名をお願いした。ほとんどの人が快く引き受けてくれた。でもあるときから、サイト上の署名増加率が滞ってきた。
もちろん過去最多の33万人はすごいと思う。それでも、と私は思う。私たちの仲間の一人が、権力者の身勝手な欲望のために、罪を負わされ、あまりにも報われぬ死を遂げられたというのに、赤木さんのために立ち上がったのは1億2000万人のうちのたった33万人? 安倍首相がなんら罪の意識を覚えず、安倍昭恵さんが無邪気に笑えているこの現状を、許せないと表明した人たちがたったの33万人? 表現の自由が認められている(表現したことで即死刑になるようなことはない)、この国で?
「自分には関係ない」。私たちはいつでもそうやって、見たくないものから目をそらしてきた。辺野古基地はいらないという沖縄の民意が、無残に蹴り捨てられたときも、他県から暴動を起こすべきだったはずだ。原発はいらないと叫ぶ祝島や、基地はいらないと戦う高江の住民のためにも。それでも私たちは関心を寄せない。「自分たちには関係ないから」。
「自分たちには関係ない」と言い続けた私たちにはいつか仕打ちがくると、ナチスと戦ったマルティン・ニーメラー牧師の詩はうたっている。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
私たちが声を上げるのは、赤木さんのため? 赤木さんの奥様のため? 本当にそうだろうか。
政府の真っ赤な不正に踏みにじられた赤木さんのために声を上げることは、このままいけばいつか踏みにじられるだろう自分たちのために声を上げることだ。赤木さんの奥様の悲しみ、無念さに心寄せることは、いつの日か大切な人を権力に奪い去られた自分たちが、心寄せてもらえるということだ。この詩は、きっとそんなメッセージを内包している。
一人を忘れない社会は、きっとあなたを忘れない社会だ、と。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(聖書より)
※ 署名はこちら:私の夫、赤木俊夫がなぜ自死に追い込まれたのか。有識者によって構成される第三者委員会を立ち上げ、公正中立な調査を実施して下さい!