ソフトウェアエンジニアが現状維持をするということ

このエントリは何も解決はしないが、それでも現状の自分の認識だけは改めて確認しなければいけない気がしてこれを書いた。

インデックス投資という考え方が存在する。

読んで字の如く、インデックス投資とはインデックス銘柄に投資することだ。
インデックス銘柄とは複数の金融商品(株式、債権etc)を組み合わせて一定ルールで平均化した指標(=インデックス)に連動する金融商品となっていて、マクロな経済動向にリンクしたものとなっている。
このインデックス投資は世間的に高く評価されており、投資による資産形成を考える際によく推奨される。

その評価の根底にある考え方とは、
「世の中全体の価値は世界中の人々の経済活動により向上する =>全体の価値が高まれば、それに連動するインデックス銘柄の価値が向上する」というシンプルな理論だ。(私は経済学の専門家でもなく聞きかじった程度の知識しか持ってないので、そこはご愛嬌)

つまり、マクロな視点では世の中全体の価値はゆるやかに上昇していくのだから、その価値上昇に追随できる金融商品であるインデックス銘柄に投資をすればその恩恵に預かることができる、という話になっている。

話は変わって、タイトルに関連する話題に戻る。
我々は日本に住む限りにおいて資本主義社会の競争に否応なく巻き込まれていくことになる。その競争は成長こそが絶対的正義という価値観と強くリンクしている。

これは、社会人として、技術者として、成長しないものはダメであるというある種の呪いとなって各個人を蝕んでいる面を否定することはできない。

その資本主義が生み出す呪いに対して、一部の思想家による、「人間はそんなことで苦しむ必要はない、緩やかに衰退していくという選択肢を選べるはずだ」、という議論は盛り上がりつつあるように感じる。

個人のレベルでも、資本主義的な競争と成長を求められる日々に疲れて、仕事は仕事だけど今の賃金と仕事内容を維持できればそれでいい、キャリアとか成長とか昇給を強くは求めない、という考え方を表明する人が増えてきている。つまり、現状に満足しているのでそれを維持したいという話だ。

この「現状維持」というものを考えたときに、現状維持を志向する人の考え方と、マクロな視点での考え方に差異があるのではないか、というのが本エントリの趣旨である。

私自身はIT業界でソフトウェアエンジニアとして歩んできた。
ソフトウェア開発という仕事は他の職種と比べて相対的に歴史が浅くまだ発展の途上にあるといえる。日進月歩で新しい技術が生まれていく世界だ。
あるいはこれはソフトウェア開発に限らずおよそ知識を駆使して働く業種や技術者全般に対して同じことがいえるかもしれない。

そんな業界にあって立ち止まって現状維持をするとはどういうことなのか。
技術者の知識レベルというのはいわゆる「知の高速道路」が次々と整備され、日々向上している。新しい技術者が生まれ、既存の技術者のレベルも上がる。知識は書籍やネット上にどんどんと蓄積されていく。
それに対して失われる知識というのは一定存在するもの、増加に対しては少ない。(特にまだ若い業界で、現役を辞める人が少ない場合には顕著であろう)
我々技術者は自分の持つ技術の価値とそこから産まれる成果に対して給与をもらう。個別の事例であてはまらないこともあるかもしれないが、マクロ的にはその傾向があることに疑いはない。

ここで冒頭のインデックス投資の話を思い出す。
その事実から技術者の価値に資本主義的な意味で値段がつくと仮定した場合に、技術者の価値の平均値に対するインデックス銘柄が存在すると考えてみる。
日々技術者のレベルが向上していくことを考えるとこのインデックスは徐々に価格があがっていくことになる。
それに対して、そのインデックスを構成する技術者個人は株式市場における個別銘柄だと考えることができる。

話は戻って、個人がキャリアの現状維持を望んだ時、現状維持を「昇給や成長を望まない = 自らの銘柄の価格向上を止める」 という考え方だとどうなるか。
市場全体の価値が緩やかに上昇していく中で、価格の上昇を止めた個別銘柄がどういう扱いをうけるのかというと想像に難くない。

現状維持をする=何も成長をしないというスタンスをとると実は現状維持という目的すら達成できないという構図がそこには存在する。
我々が日々働いている世界は実は沼のようになっていて、歩かずに立ち止まっていると徐々に沈んでいく。
沈んだ量が足首までなら少し気合を入れればまた歩き出せるかもしれないが、例えば膝まで沈んでしまった場合にはどうなるか。腰までなら?首までなら?

これはまさに資本主義の呪いだといっていいだろう。人が休みたいと思ったときにも休むことはできない。走らないことはできるかもしれないが、最低でも歩いていく程度の進歩は求められる。駅の混雑で立ち止まることは許されないし、高速道路で徐行することはできない。他人の平均に足並みをそろえる程度の動きはこちらの事情とはおかまいなしに求められてしまう。そういう社会の中で生きている。
介護や、出産・育児や、精神的なモチベーション低下、様々な理由で立ち止まりたくなる時がある。それがもっと気楽に許される社会であってほしいという個人的な願望とそれが許されない現状のジレンマを抱えている。


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