見出し画像

小論文の問題における「論じなさい」とはどういうことか?~小論文の定義①~

更新日:2024/11/10

 小論文・作文指導者の〆野が普段の添削・採点指導で教えている、文章作成における基本事項を紹介するのが、このシリーズ【文章作成の基本】。

※記事内に広告があります。

(〆野の自己紹介はこちらから見られます。)


「論理的に考えて述べる」ということ

そもそも「論じる」とはどういうことか?~小論文の定義~

 よく小論文の問題文で、「……について論じなさい」と指示されます。しかし、あなたはこの「論じなさい」とは何を指示されているのかについて、考えたことはありますか。本日はこれについて、述べていきます。

 「論じる」とは「論理的に述べる」ということです。つまり、「論じなさい」とは、「(そのことについて)論理的に(意見を)述べてください」ということです。とまあここまでは、みなさん、漠然とわかっているかと思います。しかし、「論理的」とはどういうことでしょうか。自分の書いた小論文答案に「論理的に述べましょう」とコメントがあったときに、それはどういうことに問題があって、何をどのように直したらいいか、あなたはわかりますか。

 「論理的に述べる」とは、いろいろな意味が考えられますが、さしずめここでのテーマに沿って簡潔に回答をすると「ある事柄や事象について意見を述べ、それに理由(根拠)を付け、正しい推論として述べる」ということです。より簡単に言い換えれば「しっかり理由づけをして、自分の意見を述べる」ということです。あることに対して「こうなんじゃないか」という自分の仮説(=意見)を立て、なぜそう考えられるのか(=理由)、あるいはなにがきっかけでそう考えるのか(=原因)を(根拠として)明確に示し(論証し)、それを「こうこうだから、私はこう考える」と一つの推論として述べるということです。

 学問として「論理学」というのがあります。これは、そうした「正しい推論の仕方」を研究する学問のことです。なにやら難しい話しだなと思われるかもしれませんが、もうみなさんは、高校生の段階で「論理学」は部分的に勉強しています。たとえば高校数学で学ぶ「ド・モルガンの法則」がそれです。その単元では、その命題が「真」か「偽」かを判断することを学習したはずです。今は「数学」として学んでいますが、こうしたことは大学では「数理論理学」として学びます。これは「正しく推論する」ための一技法です。また、同じく数学で「背理法」という証明の仕方を習ったかと思います。「ある数が無理数である」ことを証明するときに、あえて「ある数が有理数である」という反対の仮説を立て証明していくと矛盾が生じます。そこから、「ある数は有理数ではない(その仮説は誤りである)」となります。そこで有理数でないとするとその数は無理数だということなので(これを理由にして)、「ある数は無理数だ」と結論付けるわけです。この背理法も「正しく推論する」ための一技法です。ここでは、その仮説(意見)が正しいことを論証するために、適切に仮説を立てることとそれに理由づけし証明(論証)することを学んだはずです。

 このまま話を進めてしまうと数学の話になってしまうので話を元に戻しますが、つまり「こうこうだから、私はこう思う」というように、その理由を明確にして述べるのが、「論理的に述べる」ということです。小論文では、こうした姿勢や思考法が要求されるものなのです。したがって、小論文は、作文や感想文とは違います。感想文は、思ったこと・感じたことを自由に述べてよいです。「自由に」ということは、「何か知らんけどそこはかとなく悲しい」のようにとくに理由のない主観的な感情の吐露でもいい、ということです。しかし、小論文は「論じないといけません」。つまり、ここでは「その理由を明確にする」ことが必要不可欠なのです。

「この世界に『理由がない』なんてあり得ない!」というルール

 今までお話ししたように、論理的にものを考える上では、その意見に対する理由がなくてはいけません。それは別の言い方で言えば、「全ての物事や考えに『理由がない』ものはない」ということが前提であるということです。つまり、論理学や哲学の世界では「世界の全ての事象には『そうなる理由がある』」のです。これを、「充足理由律」または「充足根拠律」と言います。「えー本当かなあ……」と思う人もいるかもしれませんが、これのおかげで人間は今までの近代から現代の歴史の中で科学や技術を発展させることができたため、「これはおおむね本当」と今のところ言えます(まだ科学では解明できていないことも多くありますからね……)。「なぜリンゴが木から落ちるのか、それには何か理由があるのではないか。」、そう考えたからこそニュートンは万有引力(重力)を発見したわけです。こうした哲学者や科学者の自然の事象に対しての「なぜ?」と理由を問う姿勢によって、学問や科学は成立していき技術は発展していきました。そして、その裏には「全ての物事には必ず『理由』があるはずだ」という哲学者や科学者の確信があるわけです。

 このように、こうした「『充足理由律』というお約束事」の下で、論理的思考や科学的思考は成り立っており、そうした姿勢で小論文作成にも当たっていく(つまり『論じる』)ことが求められています。

「なぜなら……」と理由は書いたはず……それでも、「あなたの小論文が論理的ではない」理由

 「小論文では自分の意見の理由を明確にしろ」と先生に言われ、そこで「なぜなら~からだ」と自分の意見に対して理由を小論文の中で示した、にも関わらず、「あなたの小論文は論理的ではない」と言われた……、あなたには、こういう経験、ありませんか。

 「なぜなら……」という言葉で始めれば、なんでも理由になるわけではありません(この辺を勘違いしている中高生はとても多いです)。言い方や表現だけをそうしても、それは「論理的に述べた」とは言えないのです。そこで、ここでは答案でよく見られる、「理由を述べているように見えて理由が述べられていない」ケースについて述べます。

トートロジーでは理由説明にならない。

 以前、このような答案を見かけました。「私は資料Aに賛成します。なぜなら、私も資料Aと同じ意見をもったからです。」、これは一見「なぜなら……」と理由のように書いていますが、理由とは言えません。こういうのをトートロジー(同語反復)と言い、これは理由説明になっていないと言えます。通常「PならばQ(Q。なぜならP)」というように、PとQは別物のはずです。諺の「風が吹けば桶屋が儲かる」は、「風が吹く」ことを原因として、「桶屋が儲かる」という全く別の事象が結果として導かれるわけです(諺の意味は自分で調べてね)。この「資料Aに賛成する」ことと「資料Aと同じ意見を持った」こととは同義であるため、これは「PならばP(これは恒真式『P=P』でありたしかに『論理的には正しい』が、文章内容としては事実上『何も言っていないも同然』であり全く意味がない文章です)」と言っているようなものなので、これでは「適切な理由」として認められません。

 これ、何かの言い回しに似ていますよね。そうです、ネットでも話題になった、通称「小泉構文」・「進次郎構文」と言われる、政治家の小泉進次郎氏の発言(したとされるもの)です。「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている。」、「リモートワークができているおかげで、公務もリモートでできるものができたというのは、リモートワークのおかげ(要は『リモートワークがあったから公務がリモートワークでできた。』と言っている)」、こうした文言です。これも「PならばQ」と、形式上理由を踏まえて結論を述べたような言い回しになっていますが、これもトートロジーになっており十分な理由説明になっていません。こうやって説明すると「おかしい」ことはわかるとは思いますが、結構この間違いは小論文答案で多いです。

(「トートロジー」について)

「原因」を含むものでないと、読み手に受け入れられる理由説明にはならない。

 たとえば「日本は死刑制度を存続すべきか、廃止すべきか」という小論文の課題に対して、「日本は死刑を廃止にするべきだ」とあなたが考えたとします。だとしたら、廃止にすべき理由があるはずであり、あなたはそれを明確にする必要があります。しかし、そのときに「多くの先進国は死刑を廃止しているのだから、日本も死刑制度を廃止にするべきだ」と述べても、それは理由にはなりません。これは「クラスのほとんどの人がそれに反対だから、私も反対」と言っているのと同じであり、これは単に「多数派」に与しただけの話です。では、もしかりに多くの先進国が死刑制度を存続する世界線であれば、あなたは存続すべきだと考えるということなのでしょうか。これもまた理由になっていないと言えます。

 「家に空き巣が入った。なぜなら家の戸締りを忘れたからだ。」のように、理由となるものはその結果に対する原因となるものです。「家の戸締りを忘れた」ことを原因として「空き巣が入った」という結果が導かれたとみなした場合、それは、「家の戸締りを忘れた」のを理由として引き起った事象として「空き巣が入った」と結論付けることができます。したがって、理由はその事象の根拠や原因を含むものでないと適切とは言えません。なぜなら、論理においての「理由」とその「結論=意見」の関係性は、実在においての「原因」とその「結果」の関係性(「因果律」という)とほぼイコール(というかその関係を含む)と言えるからです。そして、そこに客観的な因果関係が認められるからこそ、その推論(「理由」と「意見」)が「一般的に読み手に受け入れられる説得力」を帯びるのです(「家に空き巣が入った。なぜなら私がブサイクだからだ。」では、「空き巣が入った」ことと「自身がブサイクである」ことに客観的な因果関係が十分に認められないため、それは「読み手が納得できる理由」とは言えず適切ではない)。

 死刑制度を廃止にするべきだと考えるなら、そこには死刑を廃止にすべきだ(存続できない)と考えるきっかけや原因となる出来事があったはずであり、それを理由として挙げるのが適切であるはずです。たとえば、裁判で死刑という判決が下されそれが執行された後にその人が実は無実だったことが判明した場合、誰がどのようにそれに責任がとれるのかといったいわゆる「えん罪」の事例や可能性が多くの先進国であり、それをなくすために(それを理由として)多くの先進国で死刑制度を廃止にした、などのようなことが考えられます(あくまでこれは一例であり、死刑を廃止にする理由は他にも考えられる)。だから、死刑制度を廃止にすべきという意見であれば、こうしたことを理由として述べるべきです。このように「原因」となることを含む内容でないと、理由として適切とは言えません。

まとめ ~「論理的に考える」訓練をしよう~

 「論じる」こと=「論理的に述べる」こととは何か、についてここではお話ししました。「自分の考えたことに常に理由を求める姿勢」がここでは必要であり、その上で「自分の考えに対してしっかり理由づけをし、それが正しいということを論証(証明)してみせること」が「論じる」ということです。このように、「論理的に考えるトレーニング」が小論文初学者には必要不可欠と言えます。こうしたことを意識して、小論文作成の勉強に臨んでみてください。

(「論理的に考えるトレーニング」にオススメなのはこの一冊。ただし読みごたえはあるので覚悟してください。他のnoterさんも薦めていました。私は旧版を読み倒しました。こちらは新版。)


「志望理由書の書き方」にお悩みの方には、こちらの「〆野式テンプレ志望理由書作成法」がオススメ!


いいなと思ったら応援しよう!

〆野 友介 | 教育系noter | 小論文・作文指導者| 志望理由書の作成指導も |
「記事が参考になった!」と思われる方がいましたら、サポートしていただけると幸いです。いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!