【コラム】「マルハラ」について、小論文・作文指導者が考えてみた。~マルハラ狂騒曲の果てにあるもの~
「マルハラ」への批判の多くは、えん罪である。
あらゆるハラスメントはこの世からなくなればいい、という主張に反論する人はまずいない。しかし、この問題の難しさは、ハラスメントそのものに対する賛否の違いにあるのではなく、する側とされる側との間にある「認識のずれ」にある。つまり、している側が嫌がらせのつもりでやっているのではないことを、された側が、している側の想定に反して嫌がらせだと感じることがこの事象なのである。「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」は万民が認めるところだが、自分の行いが相手に「欲せざるところ」だと思われているとはつゆほども思っていないところに難しさがある。そして往々にして、そのずれは、している側の時代や状況に対する解釈のずれや、される側に対する配慮や想像力の欠如により生じる。だから、している側がそこに生じている「ずれ」を認識し、想像力を働かせて、時代や状況に対する解釈をアップデートするなどして改め、その「ずれ」を解消していくことでしか解決はできない。
今年に入り二月ごろから、ネット上で「マルハラスメント(=マルハラ)」という言葉がやおら躍りはじめ、中高年を中心にちょっとした動揺が走った。SNSメッセージの文章の終わりに「。(句点)」を付けられると送信元が怒っている感じがして怖いという意見が、主に若者から出ているというのだ。そして「。」は冷たい印象があるので、文末には「!(感嘆符=エクスクラメーションマーク)」を置くのが望ましいと若者は思っているということである。
どこの出自の言葉なのか、そもそも「マルハラ」なるものがあるのかはここでは問わないが、やがてテレビや新聞の報道ニュースにもなっていき、ネットニュースのコメントには「『。』を付けただけで嫌がらせと思われるのなら、もう若い世代とどうコミュニケーションをとったらいいかわからない。」という声が挙がっている。
しかしその中で「日本語では、文章の終わりに『。』をつけるのは当たり前」、「小学校一年生の国語で学習する。それをなぜ、マルハラなどというハラスメントと言われるのかとても不思議。」、「若かろうが年配者だろうが学校教育の国語で『。』は当たり前に学んできているはず。」、「プライベートのやりとりとビジネスでは違う。」という批判的なコメントを多々見かけ、ちょっと気になった。若者はあらぬ嫌疑をかけられているのではないか。「マルハラ」なるものをもって、「今の若者は正しい日本語もわからず、公私の分別もつかない。」と一方的に決めつけて言うのはどうなのか。
結論から言うと、「今の若者が『正しく美しい日本語』を知らない」わけでも「プライベートとビジネスの場の区別がつかない」わけでもない。それはいらぬ心配である。
私は中高生の作文や小論文、志望理由書などの添削指導や採点を行っている。一年間に2500から3000枚程の文章答案を扱うが、今まで「。」の代わりに「!」で終わらせている答案を、一枚たりとも見たことはない。どんなに拙い文章でも、句点の付け忘れこそあれ、「!」をつけて「それな!」のようなLINEみたいな文章を書いている答案なんて見たことがない。もちろん今どきの子たちだから、普段はLINEなどのアプリで、くだけた表現で「!」などの符号や顔文字、スタンプを適宜用いながら、友達などとコミュニケーションをとっているに違いない。しかし「大学や学校に対してといった、『大人に提出するしっかりした文章』にそうした表記や表現は用いない」ということを、彼らは十分わかっているし弁えてもいるのだ。それを「学校教育で習わなかったのか」と青筋立てるのはお門違いも甚だしい。さすがに若者をなめすぎていると、私は思う。
ただし、ごくまれに会話文内で「!」や「?(疑問符=クエスチョンマーク)」を使っている文章答案がある。「!」は、「.(ピリオド)」から派生した、ギリシャ語やラテン語に由来する(という説の)もので、そもそも日本語表記の符号ではないため、そのときは「句点を使いましょう」と(日常使いでは問題ないが学校教育の観点から)指導している。しかしそれでさえも、地の文で用いておらず会話文にのみに用いているため、その答案は公的な文章と私的な会話を分別できていると言える。そしてその若者は会話文内がプライベートトークの内容に当たる文章であるからこそ「!」を使っているため、その判断自体は日本語表記法として適切である。
したがって、「今の若者は…」とコメント欄で批判していることの多くは、「えん罪」である。その批判の的にある「若者」なるものは現実には存在していないのだから、一体その批判をしている人は、誰の何に文句を言っているのだろうと不思議に感じた。
一体何が「ずれ」ているのか。
「マルハラ」がハラスメントであるとしたら、「。」に対して使う側と使われる側との間で「認識のずれ」があることは間違いない。「。」を使ってメッセージを送った人の想定外の認識を、送られた人はしているのだ。しかしそれが、若者が「正しい日本語を知らない」のでも「公私が区別つかない」のでもないのは、前述の通りである。では、その「ずれ」とは一体何か、考えてみたいが、それは大して難しいことではない。なぜなら、「マルハラ」を扱った記事をしっかり読むと、答えは既に出ているからだ。的外れの批判をしている人の多くが、この事象が何か、読み間違えている(あるいは意図的にミスリードしている)としか思えない。
ネットTVのABEMA『ABEMA的ニュースショー』の記事「LINEで句点『。』は誤解を招く… “マルハラスメント”とは? 若者世代『冷たい、怒ってる、冷めてる、もう会話が終了という意図なのかなと』」からの引用だが、藤井靖氏は、若者がコミュニケーションアプリ上のやり取りを、「文章」ではなく「会話」として認識していることを示唆している。つまりチャット上でのやり取りを想定しているのである。その上で、会話の連続性を機械的に断ち切るものとして、句点が図らずも機能したと考えている。だから、的外れな批判コメントをした中高年の方々の中で、これを「日本語文章の問題」として捉えている人が多くいたが、それがそもそも間違いなのがここで分かる。彼らにとってこれは「文章」ではなく、「会話」の一部なのだ。会話は、各々が一方的に主張して終わるものではない。会話とは、連綿と続くことを期待した両者の共同作業なのであり、それを(冷たい印象をもたらす)無機質な記号の「。」によって断絶することを、「会話」と考える若者は期待していない。
次も同じ記事からの引用だ。
「これはあくまで『会話』の問題なのだ」という捉え方が、ここでもされている。続けてこうした話も出てくる。
「文章は打たずに電話で済ます」ということは、文章の持つ役割や働きは電話で十分果たせると若者が考えているということだ。ではここで期待されている文章の役割や働きとは何か。ここで「用があれば」とある。ここでの「用があれば…」とは、「自分の側が相手に、一方的に速やかに伝えるべきことや主張すべきこと、連絡すべきことがあるときは…」ということが読み取れる。ということは、翻って「文章とはそういうものだ」と若者が定義づけていることがわかる。ここでは会話に対置するものとして文章を考えられている。つまり「連続的で双方向的な」な会話に比べ、文章は「一方向的で不連続的な一回性のもの」として捉えられている。こうした前提に立って句読点の使用が文章作法の一つであると規定すると、句点はここでの「会話として考えているもの」と、相性はあまりよくないと言える。
また別の記事には、こうした意見もあった。
今度は産経新聞社の記事「文末の句点に恐怖心…若者が感じる『マルハラスメント』 SNS時代の対処法は」からの引用だが、引き続き、若者がSNSメッセージとして打つ「文章」を「連綿と続く『会話』の一部」として考えていることが、ここでも示されている。なお「。」が「テンションがわかりにくく、リアクションがない」と考えるのは、符号の性格の違いとして考えても、何らおかしなことではない。「。(句点)」が単に文の終わりを示す、「文法的」な符号(文の終わりには付けるというルールに即して機械的に運用するもの)であるのに対し、「!」・「?」は文の終わりであること示すと同時に感嘆や疑問なども共に示す「修辞的な」符号(顔文字のようにそのときの感情も表現できる)であり、句点に比べ「表現豊かで、自由な使用ができる記号」であるからだ。
高橋暁子氏は、中高年世代と若者世代の育ってきた時代や環境を比較して、この事象を捉えている。ここで若者が「会話(チャット)」である以上、中高年世代と比べ短めの文章(ときには言葉のみ)でやり取りしがちであることを指摘している。つまり逆に言えば、若者は練り上げて長い文章として構築することをせず、相手の反応に応じてリアルタイムに「言葉」をやり取りすることをここでは示している。なお若者の間で「句点を怒っていることを意味する際にも使用される」ことを私も立派な中高年なので知らないのだが、前述のように「。」と「!」、「?」との違いを考えれば、そこに感情を入れて表現しない「。」は「静かに怒っている」というニュアンスになるのかもしれない。
SNSでやり取りする文章を、「文章」ではなく「会話」だと若者が考えているという前提に立てば、これが両者の認識のずれとも解釈できる。
次は週刊プレイボーイの記事(週プレNEWS)「『マルハラ』なる言葉も誕生! LINEの文末に『。』は本当に不適切ですか?」からの引用だ。
つまり上司の側(中高年)ははなから人間関係の醸成を考えておらず、仕事の進行をチェックするための業務上のものとしてSNS上のやり取りを捉えている。そこにおいてSNS上で送るものは、中高年にとっては「会話」ではなく、業務指示書のような「文章」である。悪く言えば部下の「嫌われたくない」、「失敗したくない」などの主観はどうでもよく、こちら(上司)の指示を黙って聞いて仕事を的確に遂行してくれればよいと、上司は考えている。ここで双方向的なコミュニケーションを上司は期待していない。ここには中高年上司の相手(若者)の気持ちを配慮しない一方的な態度が透けて見えてくるし、この場合「!」などの「感情豊かな記号」が出てくる幕はないだろう。
しかしだとすると、問題は「マル」を付けるかどうかなのだろうか。
「文章」を書いているつもりのない若者に、文章作法を守った「文章」を送る中高年。
前述の通り、「。(句点)」には、符号の性格としてみれば「文の終わり」という意味しかなく、それ以外の意味はない。「マル」は、いい意味も悪い意味もない、ただの記号だからである。
それでもなお、若者が中高年上司の「。」にマイナスの感情を抱くとしたら、それは「。」自体が直接的に嫌な感情をもたらすということではない。中高年上司の、こちらの都合や気持ちを考慮せず、「『文章』ではないSNSメッセージ」に機械的に「。」をつけるようなコミュニケーションに対して、若者は嫌な感情を抱いているのである。そして、若者も、文章を書く上で文の終わりに「マル」を打つのが決まりであることくらい、当たり前にわかっているし、文章を書くときはそうしている。それをほとんどの「中高年(と思われるネット上で批判する人々)」は、「今の若者は『マル』が怖いと言っている。学校で国語を習ってないのか。」、「文の終わりに『マル』つけたら嫌がらせなら、若者とどう付き合ったらいいのか。」と一方的に憤ったり困惑したりしている。しかしそれのほとんどが、読解力不足から来る曲解であることは、前述で示した通りである。
簡潔に言えば、LINEに代表されるSNSメッセージを「文章」として捉えているかどうかが、ここでの「ずれ」の内容である。中高年はそれを文章として捉えた。しかし若者は、それは「会話」の一部であるため文章としてとらえていない、というだけである。そして若者の側が「それを文章と思っていない」以上、「文章作法はこうあるべき」と中高年が仏頂面で「。」を打っても、送られた相手の若者は違和感を覚えるだけなのである。
また、ここでのずれの本質は、そうした違和感の先にあるものであるとも言える。結論から言えば、今までもいつの時代にもよくあった、単なる両世代間のディスコミュニケーションによる相手への不理解がその本質ではないか。だから「マルをつけるべきかどうか」が問題なのではない。マスコミにとっては、それを新奇な「マルハラ」という名称で呼び、「最近の若者は、理解できない奇怪で不可解なもの」とセンセーショナルに煽る格好の「ネタ」だったのかもしれないが、単にいつの時代にもある世代間ギャップの一つに過ぎない。少なくとも、私はそう考えた。
〈引用元と参考資料〉
『句読点活用辞典』
第1版第2刷(1981年2月1日発行)
栄光出版社 刊 大類 雅敏 編著
LINEで句点「。」は誤解を招く… “マルハラスメント”とは? 若者世代「冷たい、怒ってる、冷めてる、もう会話が終了という意図なのかなと」(ABEMA的ニュースショー)ABEMA TIMES 2024/2/2 7:03配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/2883ea7ff061af155f6491339a42cb75f8648092
文末の句点に恐怖心…若者が感じる「マルハラスメント」 SNS時代の対処法は
村田 幸子 産経新聞社 2024/2/6 16:37配信
「マルハラ」なる言葉も誕生! LINEの文末に「。」は本当に不適切ですか?
週プレNEWS 2024/2/22 6:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee0714712c4e2d90e3939cefbdc2ba98041a47cc
なお、「マルハラ」の発生と伝播についてはこちらに詳しい。マスコミ主導の「マルハラ狂騒曲」について、「若者は本当にマルハラを感じているのか,『存在している』という前提ではなく,まず非実在の可能性がないか大阪大学大学院人間科学研究科の三浦麻子教授と社会調査を行っている」。ここで、「句読点に威圧感を覚えるのは非実在型の現象ではないとはいえ,よくあると答えた人はわずかであり,句読点=マルハラスメントというのは行き過ぎではないか」と述べている。「なお、『若者は句読点を嫌がるのか』と鼻息が荒くなる30歳以上の方も多い気がしますが,あくまで『LINEやチャット』での話なので,句読点があるとすべて威圧的に感じると言っているわけではないことに注意が必要」とのこと。
マルハラはいつどこで生まれたのか?
鳥海 不二夫(東京大学大学院工学系研究科教授) 2024/3/11 9:15配信
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/be7b1fe1118121ed824f952b2c32705f32a399a0
しかし、こうした鳥海先生の注意をよそに、「若者は『マル』を怖がる不可解な人たち」というイメージが、今や既に人口に膾炙しているようだ。
堂本光一 若者が感じる“マルハラ”に困惑「そんなん言われたほうがハラスメントですよ」
スポニチアネックス 2024/3/19 12:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a98eced6f8e22031c4cc95ac98043834e00c7503
若者は、「そっちのほうがちゃんとしている」ことを、当然わかっている。何でもかんでも、若者が「マル」を嫌がっているのではない。今やピントのずれた批判はネットニュースのコメントだけではなくなったことを示す一例。ただし、ラジオ放送上のコメントなので、堂本氏は、エンターテインメントとして、リスナーに「付き合って」話しているだけかもしれない。
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