「将来の夢」を「将来の目標」と言い換えているのは過剰な配慮なのか?【高校生のみなさんに問いたい】
更新日:2024/11/24
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無意識に普段から「将来の夢」という言い方を避けていたが、これは過剰な配慮なのか?
今日は、ある日の気付きから考えたものをエッセイ的にまとめました。難しいお話しでもないし、短い記事なのでさくっと読めるはずです。
とある記事を読んでいて、ある日気付いたこと
本日は、私から高校生の方々に聞きたいことがあります。今日はそれについてお話をさせてください。つい先日、とある記事を読んでいて、気付いたことがありました。それは、「そう言えば、私、志望理由書の添削の中で、『将来の夢』という言葉を避けて『将来の目標』という言葉を好んで使っているなぁ」ということでした。
(私、普段はこういう仕事をしています。)
(例の『とある記事』)
(その関連本)
こちらの記事、内容としては全く同意できるのですが、センシティブになりがちなことに関して「○○ハラ」というキャッチ―なフレーズでくくろうとする、昨今の風潮は正直あまり好きではありません。そういうセンセーショナルなものとして煽るやり方はどうでしょうかね。話題にしようというマスコミの魂胆が見え隠れしますが……。うがった見方ですが。
(過去には、「マルハラ」というのもありましたね)
しかし、「進路指導において、高校生の方々に将来の夢を考えさせることが一つの心理的プレッシャーになり得る」ことは事実だと、私も思います。また、こうしたセンシティブなことが問題視されやすい時代なのは事実なので、指導者側は一定の配慮をすべきことではあります。
(たとえば、「将来の夢を持て」と上から指導するのではなく、普段の生活の中で自分の将来を生徒が自律的に考えられるような環境を、指導者の側で用意するなどが適切でしょう。)
ただ、普段からこのようにうっすらと考えてはいたのですが、よもや自分がそうした配慮を実践しているとは気付きませんでした。私、添削指導内で「将来の夢」という言葉を「将来の目標」と言い換えて使っていました。これ、全くの無意識です。何ということでしょう。これは、「過剰な配慮」なのでしょうか。
私の考える「将来の夢」と「将来の目標」との違いを考えてみる。
改めて、このことについて自覚的になって考えて言語化してみると、それはつまりこういうことなのだと思います。
「夢」という言葉の持つイメージは「憧れやロマン」につながるものですが、それは別の側面から見ると非現実的で「(憧れであるがゆえに)実際に手に届きがたいもの」というイメージにもつながりやすいと思います。したがって、「将来の夢」といった場合には、「本来は将来そうなりたいのだが、現実化するには困難を伴う」というネガティブな意味にとられる危険性をはらむとも言えます。
対して、「目標」は自分の理想を現実化するために計画的に「設定」するものである以上、現実的なアプローチとしてのイメージにつながりやすいと言えます。ここには「現実的にかなえがたいもの」というネガティブなイメージはないため、フラットに「では、理想を実現するにはどういう目標を設定してアプローチするべきか」と考えられるような気がします。
おおよそ、こんなことを考えて、志望理由書を添削するときに、私は「将来の夢」と書かず「将来の目標」と書いていたのだと思います。
まとめ ~言い方の違いで与えるニュアンスが違うと考えるのは私だけ?~
あくまで、これは言葉の与える表面的なイメージの問題、いわば「言い方の問題」なので、本質的な問題ではないのですが、とすると、私も「ハラスメントになる地雷」を無意識的に回避しようとしていた、と言えるのかもしれません。
「でも、記事の中でよく『将来の夢』って言葉を使っているよね?」、ご指摘はごもっともです。よく使っています。それはSEOを意識したライティングをしているからだと思います。「志望理由書」という言葉と共に検索されやすい言葉は、どうも「将来の夢」の方らしいのです。ですから、「将来の夢」という言葉を記事内ではよく使っています。……と今言語化したところで、これも普段添削作業でやっていることと矛盾していると、たった今気付きました……。
しかし、これって「過剰な配慮」なのでしょうか。「『将来の夢』って言ったら実現が困難だというイメージを与えてしまう」と考えてしまうのは、私の「杞憂」でしょうか。だったらいいのですが……。学生のみなさんの意見を聞いてみたいところです。
(こう考えてみると、「夢」って多面的な意味を持つ言葉ですね。)