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自分の書いたものを読み返す

自分の書いたものを読み返せない人間、しめじです。

世の中には「自分の作品を読み返せる人間」と「自分の作品を読み返せない人間」の2通りがありまして、私は明確に後者です。
誤字探しのために一応見返しはしますが、「あ〜〜〜〜〜〜ーー」とか「お〜〜〜〜〜〜」とか叫びながらでないと無理です。叫ぶ事で脳のキャパを浪費して、文字を文章として認識しないようにし、読む行為を回避しているのですね。

いやまったく信じられないことです。自分の作品読めますか? 文字を書く人なんてほとんどいないことを承知でこの話続けますけど、ほんとに信じられない。

こう……説明しますと、気合を入れて文章を書く行為って、私の中ではハラキリのような感覚なんですよ。エイヤっと自分の思考とか記憶とかを切り開いて、痛え痛え言いながら内臓を取り出して並べてるんですよ。

それから息も絶え絶えで、取り出した内臓をせめて綺麗に並べようとか飾りつけようとかしてみるわけですよ。あー痛い痛い。こうやって文章を書いているのです。

そんな手順で出来た自分の文章を読み返すというのは、そのハラキリ行為を再演することに等しいんですね。小説でもブログでもどんな文章でもいいんですが、「読む」ときには自分の中で情景を想像して読みますよね? 
この「想像」を自分の文章に対して行った場合、再現度が、解像度が高すぎるんです。それはもう自分で作った文章ですからね。他人のハラキリを想像して胃を痛めるほど私は共感性が高くはないですが、自分のものとなると話は別です。

もちろん自分の文章を読もうとしたことは何度もありますが、スマホを投げ飛ばしたくなるくらい痛い。無理。誤字脱字を探すだけでも、勝手に情景が脳内に浮かんできて発狂しそうになります。まあ実際「あ〜〜〜〜〜〜」とか叫びながら行っているので、側から見れば実際狂人なのですが。


なんでこんな話をしているかというと、「自分の文章を読まなければいけない」気がしているのですね。

自分の中のゾウを探す。他人に指摘してもらうのも有効な手段なのですが、自分の文章を分析してみるのも有効な手段なのではないかと思うのです。

文章というのは、書き手の心情なり考えなり人間性を、多かれ少なかれ反映するものだと思います。つまり文章というのは一人の人間を、ニクの中から取り出してカミの上に固定するような行為ではないでしょうか。
そうして抜き出された文章に対しては、自分が他人を批評するのと同様に、客観的な分析ができるのではないかと思います。できるのかな? ちょっと自信はないですが、そう思います。

なぜ顔を伏せるのか。お前が正しいなら、顔を上げられる筈ではないか。
創世記

ゾウは私の中にいます。それは多分私の書いてきた文章の中にも。
それを正面から見返すことができないのは、やはり何かしらの問題が眠っているからではないかと思わざるを得ません。いずれは読み返さなければいけない。


それにゾウの話は抜きにしても、過去の自分が何を考えていたか知れるなら楽しいことだと思いませんか? 昔の自分の文章を鼻で笑うこともあるでしょうし、逆に何気なく書いた文章が未来の自分の心を揺さぶることもあるでしょう。
ある一瞬の自分の姿、思想、感性を記録するのが芸術です。自分が自分のために作ったものを、その当人たる自分が楽しめないなんてもったいない! 

創作界隈では時折「読みたいものがないなら自分で書け」と言われますが、なんでえこの野郎、こちとら書いてんのに自分じゃ読めねえんでい。許せねえ。全人類俺好みの文章を書け。

ここまで書いて気合いが満ちてきたので、自分の過去のnoteを見返してみましたが……うわああやっぱり苦しい。自分の文章を読み返すこと、やはり苦行です。

自分の文章を読める人のことはやはり羨ましい。
とはいえ私も、いつか時間が経ったら読み返せるようになる日が来るのかもしれません。その日を楽しみに待ちつつ、今はもう少し我慢することにします。


*それと誤字脱字を見つけたら教えて貰えると助かります。読む邪魔になるのでゼロにしたいのですが、なにぶん自分で読み返せないので……

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