旅記 20220503 神戸
名古屋から1時間で着けるのだから、新幹線とはつくづく便利なものだなと思う。一時期は随分乗ったものだけれど、それでも毎回新鮮に楽しい。
電車に揺られながらぼうと考え事をする時間が好きだ。文章を書くには電車の中が一番いいと思っている節が、昔からある。
写真はiphoneで撮っているのだけど、ipadから見直すと思ったより好ましく取れているものが多い。大きな画面で見返すと印象も変わるものだ。
新神戸駅から。港まで一直線に見通せるこの場所は、見慣れた景色のはずなのだけれど、やはり美しい。
この旅には3冊ほど本を持ち込んでいるのだけれど、1冊に丁度面白い事が書かれていた。
オスカー・ワイルド、『幸福な王子』などで知られる作家、批評家、芸術家である。所謂「芸術至上主義者」であり、自然主義(現実をありのまま正確に、美化せず客観的に描写する手法)を痛烈に批判した人物である。
曰く、「どんなものでもその美しさを認めるまでは本当に見たことにはならない。そのものの美しさを認めたとき、初めてものは実在しはじめる」
上記の本では例にアルプス山脈が挙げられている。
昔はアルプスなんて通行の邪魔でしかなかった。だが、ルソーがその崇高な美しさと清廉な空気を讃えたことで、読者は初めてアルプスの美しさを「発見」し、アルプスを美しいものだと認識するようになった・・・ということだそうだ。
「<自然>とはぼくらを産んでくれた大いなる母ではなく、ぼくらが創ったものだ。それらが生命を得て甦るのは、僕らの脳の中でなのだ。ぼくらが見るからこそものがあるのであり、ぼくらの見るものやその見方は、ぼくらに影響を与えてくれた『芸術』に負っているんだ」
つまり、自然の事物はことばに形取られて初めて、音楽絵画など芸術に表現されて初めて、美しいものと認識される。
自然があって芸術が生まれるのではない、芸術があるからこそ人の心に自然が生まれるのだ。そういう考えだと解釈している。
いつから神戸が好きになったんだろう。誰の芸術によって? 誰の言葉で「神戸」は僕の中に根付いたんだろうか。
始まりは思い出せないけれど、今こうして文章を書くのも「神戸」を再発見する手段であり、神戸の美しさを自分に刻み込むための手段なのだと思う。
北を向けばいつでも目に入る神戸の山々と、その上に青々と広がる空。
僕は神戸を愛している。
ことばに、かたちに残らないものは消えてしまう。忘れないために、思い出すために、何かを発見するために。
僕は文章を書いている。
新神戸駅裏の、布引の滝。思えば神戸にいた頃は真面目に観光したことがなかった。神戸を美しく見るだけの言葉、または視点を持っていなかったのかもしれない。
綺麗だったのだけれど、滝の写真は撮らなかった。それより見上げる樹々の間から抜ける空の方を見てしまう。その写真を一枚撮った。
撮って、見返して、ようやく自分のまなざしや、自分の好きなものが見えてくる。
無意識に心が動いて、何かをカタチに残す。それを見ることではじめて自分の心の動きがわかる。これが「人生が芸術を模倣する」ということなんだろうか。
北野坂。明治時代風の洋館が立ち並ぶ異国情緒の通り。
道端に咲く名前も知らない花、振り返るとまっすぐ長い坂道に街灯が灯っていたこと、西の空から大きな月が上ったこと。
僕には、名前が付けることが出来なかったものが無数にあって、それを忘れてしまうこと、それを取りこぼしてしまうことが、時々とても苦しくなる。
須磨の海。空はこんなに開けていて、綺麗だ。
けれど写真にしてしまった瞬間、須磨の海と空はこんなかたちでしか、僕の記憶に残ってはくれない。
この写真は空の一部だけを切り取っている。この写真は多すぎる観光客をできるだけ排除している(人混みは嫌いだ)。
この写真は綺麗だった波打ち際を撮っていない。風化しないビニールごみ、観光客の歓声、遊泳禁止の文字がデカデカとペンキ塗りされた、沖合のコンクリート。
綺麗なものと同じくらい、綺麗ではないものは転がっている。
写真とは、切り取る作業であり、同時に切り落とす作業だ。
写真は対象をほとんど正確に写す。けれど、写真の外側には写されなかった/選ばれなかったものが確かに存在していて、切り捨てられてしまったそれは二度と、ほとんどの場合二度と取りざたされることはない。
写真という表現は、きわめて写実的だ。
だからこそ逆説的に、僕は写真の持つ欺瞞性を感じずにいられない。スポットライトで照らすように、写真は限られた部分だけを描写し、それ以外の部分を闇に葬ってしまう。
その輪郭線は四角く判然としているから。その範囲内の描写はあまりに鮮明だから。写真を撮るという行為はよりいっそう、暴力的な行為に思えてならない。
もちろん文章だって同罪なのだけれど。
阪急三宮とJR三ノ宮の間には大きなビルが開業していた。今度は最上階まで登ってみたい。阪急西口のマクドも、ハンズもパイ山も消えてしまった。
よくわからないモニュメント。
駅のそばにこんな空間を、モニュメントを、言ってしまえば無駄な空間を作ってしまえるのが、神戸という街の素敵なところだ。
今回の旅行の目的、須磨寺。
前に記事にした、尾崎放哉が一時期下男として身を寄せていた場所だ。
賽銭箱の前に座って、参拝客に蝋燭などを売っていた。手の空く時間も多かったから、座布団の下に句帳を仕舞って句作に励んでいたという。
カラスの声がよく響く、静かな境内だった。
大師堂前には小さな池と、放哉の句碑が残っている。
少し読みづらいが「こんな」から反時計回りに読む。
句碑というものをちゃんと読んだのは初めてだが、読み方や発声、情景描写が行われているのが面白い。太く彫られた文字にアクセントを置くのが読み方だろうか。
「こんな」の「ん」が細く大きく伸ばされているのが面白い。綺麗な月を1人で見る、その孤独をよりいっそう感じられる。
「こんなよい月を一人で見て寝る」
文字にするとスラっと読み流せもする自由律俳句が、句碑の作者の表現によって、声に出して読み上げられたかのように響く。
活字ではなく肉筆だからこそ、伝わるものもあるのだなと思った。
手書きの文字は、たぶん活字と会話の中間点にいる。
線香を買って炊いてみる。
硬筆でも習ってみようか。昔からずっと字が汚かった。左利きというハンデを抜きにしても、あまりに手書き文字へ注意を払ってこなかった。
文字を書くことも表現技法の一つだなんて思いもしなかった。
当たり前のことなのに知らなかったことが僕には多すぎて、それに気付くたびに頭がくらくらする。
名前を知らない花。
図鑑が欲しい。花に限らない。僕はなんだって知りたい。
名前がなくては、かたちがなくては、言葉がなくては、自分の中に残すことはできない。
僕はそれを知らないといけない。
西日。
暑くはないけど日差しは強い。夏が、これから必ず来るのだろうと思う。
空ばかり撮っている。
それは僕が空ばかり見ているからだ。
僕はきっと空が好きなのだ。
さあ、夏はどこへ行こうか。
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