最も美しい心の動きについて。ヨルシカ「盗作」より。
タイトルの事について語りたい。強烈に語りたい。先週は底の底まで落ち込んでいた体調が復活したせいか、とんでもなく語りたい。俺が思う「人間の最も美しい心の動き」について聞いてくれ。
ヨルシカについて語る前に、まずはその「心の動き」についてざっくり説明したい。君たちは””死の受容のプロセス””について聞いたことはあるだろうか?医師であったキューブラー=ロスという人物が発表した、死を迎えつつある患者の多くが辿る五段階のプロセスのことである。
自分の死に限らず、配偶者の死、その他強烈な精神的ショックなどにも同じプロセスは起こりうる。とりあえずは自分が末期ガンを宣告された際の反応、そんな場合を例にとって説明していく。
第一段階は「否認」。自らが近い将来死ぬことを受け入れられない。告げられた/判明した事実を、間違っていると直接的に否定する場合もあれば、その事実から逃避することで間接的に否定する場合もある。理解、納得ができない。自分事として受け入れられない。そういった心の動きだ。
第二段階は「怒り」。自分が死ぬことを理解してしまった。しかし正面から受容することは出来ず、医師や家族、親しい人々や物に当たり散らす。爆発的な感情である。だが長くは続かない。怒りにはエネルギーが要る。もはや怒ることも不可能になったその時、次のフェーズが訪れる。
第三段階は「取引」。「少しでも長く生きられないか」訪れるはずの死を何とか回避すべく道の医療手段を探す、または神仏に祈るなど奇跡の到来を願う。私はこの第三段階について「信仰」と言い換えてもよいかもしれないと思う。もちろん、こうした努力は多くの場合見当違いであり、現状の改善に繋がることはほとんどない。全くない。少し頭を冷やせば当人も気付くはずの事ではあるが、死が迫った当人はそんな状況ではないのである。そうして無意味な、しかし必死の。努力が行われる。だが人間、努力し続けられるほど強くはない。そうしてとうとう「死」という事実と対面するフェーズに辿り着く。
第四段階が「抑鬱」。「死」等の強烈な事実/現実に、ようやく正対する。これまでの動きはエネルギッシュであったが、この段階において、精神は深く深く沈み込む。悲観、むなしさ、絶望、孤独、無力さ。すべての努力が無駄に終わり、抗う気力もなくなった。ただただ静かな悲しみに包まれる。もはや座して死を待つのみ。客観的にはそう思われる。
しかしこの抑鬱、第四段階をひとは抜けることが出来る。様々に乱れた感情は、静かに、最後のフェーズに着陸するのである。
第五段階は、「受容」。受け入れるのだ。死を受け入れる。怒りに覆われていた自分を受け入れる。奇跡を願った自分を、抑鬱の悲しみを受け入れる。これまでの自分すべて、そしてこれからの自分すべて――すなわち自身の死――を受容する。
なんて美しいんだ。怒りも悲しみも超えた感情とは一体なんなのだ。きっと諦念とも違うのだろう。澄んだ湖面のように静かな感情なのだろうか。ただ受け入れる、それはどれだけ難しいことだろう。並の人間、平時の人間には辿り着くことなど出来ないだろう。私はこの感情に憧れる。この感情を美しいと思う!想像するだけで腹の底からうねりあがるような感情が、震えが起こる。怒りと悲しみの先に、ただ穏やかな感情へと辿り着く。これこそが、「人間の最も美しい心の動き」である。私はそう思っている。
私はこの感情を体験したい。しかしそう思う時点で俗念に囚われすぎている。幸か不幸か持病もなく、それなりに健康な体を持っている。余命を2年とでも定めて北欧に行くような勇気も何も持ち合わせていない。
だから私は「この感情」をアートの中に探すことにした。自分で手に入れられないならば、他人のそれを追体験するまでである。そうして私はヨルシカ「盗作」に出会った。
ヨルシカの事はこのアルバム発売の1年ほど前から知っていた。初めて聞いたのは「ただ君に晴れ」だった。Twitterでよくリンクが張られていたので見に行ったのが切っ掛けだった。特別惹かれることもなく、余所見をしている間に、youtubeにオススメされたままの次の動画が流れた。
衝撃を受けた。何度も聞いた。すぐに初回限定版を取り寄せた。人生で最も多感な時期に、僕はヨルシカに出会ってしまった。
ヨルシカ、またはn-buna(敬称略)は「受容」の感情を描くのがとても巧みだ。これから紹介するアルバム「盗作」以外の作品にも、””死の受容のプロセス””によく似た心の動きが表現されていると思っている。私はn-bunaの作品すべてを、とても強く好んでいる。
では、とうとう「盗作」についてキューブラー=ロスの説に沿いつつ話していこう。私の知識不足などによりザックリ飛ばす曲もあるが許してほしい。
※初回限定盤には「男」の独白などが含まれた小説が付属。その小説から引用して話す部分もあります。
収録曲
01. 音楽泥棒の自白
02. 昼鳶
03. 春ひさぎ
04. 爆弾魔
05. 青年期、空き巣
06. レプリカント
07. 花人局
08. 朱夏期、音楽泥棒
09. 盗作
10. 思想犯
11. 逃亡
12. 幼年期、思い出の中
13. 夜行
14. 花に亡霊
このアルバムはミュージシャンとして成功を遂げていた、一人の「男」の破滅を描くアルバムである。また、この作品は「男」自身が作成したアルバムでもある。男の目的は自身の破滅――芸術家としての世間的な死――である。この時点ではなにがなにやらといった説明ではあるが、曲順に沿って「男」の目的、意図、感情の動きを追っていくことにする。キーとなる曲の多くはYoutubeのヨルシカofficialチャンネルにアップロードされているが、サブスク等加入されている方は是非アルバムを通しで聞いてほしい。
1曲目は「音楽泥棒の自白」 盗用を隠そうともせず「月光」をオマージュしたインスト。小説にて「男」は「これまでずっと盗作をしてきた」とインタビュアーに語る。芸術家として破滅するための手段として「男」は盗作という最大のタブーを自白する。
2曲目は「昼鳶」 曲名は空き巣の隠語であり、「男」は過去に空き巣で生きていた。
無差別に攻撃的な歌詞に加え、曲中にはボーカルの舌打ちが挟まれるなど、ミドルテンポでありながら抑え込む/溜め込むような怒りがある。一方、Cメロの「忘れたいのに胸が痛い ただ何も無いから僕は欲しい」には「男」の悲しみがある。怒りに振り切れずにいる、感情の揺らぎを感じます。
3曲目は「春ひさぎ」 売春をテーマにした楽曲。
4曲目は「爆弾魔」 ここまで4曲ともタイトルが過激。炎上商法とも評されかねないタイトル群ですが、それも意図したところでしょう。曲は「死んだ目で爆弾片手に口を開く さよならだ人類 みんな吹き飛んじまえ」とアグレッシブに始まる割には常に悲しげ。青春、君、心。内省と悲しみがメインでありながらも「爆破したい」と叫ぶ姿は2曲目と対照的で、悲しみの中に怒りを隠しているかのよう。揺れる心中を抱えたまま5曲目のインストへ。
5曲目は「青年期、空き巣」 突然明るいインスト。「A面は終わりです。B面へ裏返してください」と英語で繰り返される中、曲は徐々にグリーグの「朝」へと収束していきます。この曲は英語アナウンスの通りアルバムの折り返し。ここから一気に「男」の精神は発散/解放へと向かいます。
6曲目、「レプリカント」 曲調は一気に軽快になり、「ブレードランナー」をオマージュしながら不死と芸術をテーマに展開します。本当に素晴らしい曲なので聞いてほしい・・・
説明前に背景の話ですが、「男」は数年前に妻を亡くしています。「男」にとっての死の受容とは、自身の芸術家としての死だけでなく、最愛の妻の死を受け入れることです。妻の死後、数年間抜け殻のような日々を過ごしたのちに作曲を再開し名声を高め、このアルバム「盗作」の製作に取り掛かります。そしてこの歌詞。
最愛の妻との思い出を「偽物だ」と叫ぶ。否定する。だって心は脳の信号だから。シナプスが繋ぐ電気信号の総体だから。思い出に価値なんてない。君だって誰か別の人間や芸術から影響を受けて生まれたレプリカなんだろう? 君はオリジナルじゃない。「男」は次々に否定します。最愛の妻。その存在、価値、思い出、愛。全部噓だよ。君に価値はなかったんだ。思い出すたびに苦しい記憶、その全てに価値はない。だから俺の悲しみも偽物/存在しないもの/レプリカだ。防衛機制として男は理詰めの「取引」で悲しみを回避することを試みます。
美しい思い出の全てを、なかった/嘘だったことにしてまで自身を守る行動。私はここに強烈な「否認」も見ます。では、男はこれにて精神の安寧を得たのでしょうか? そんなはずないですよね。答えは「レプリカント」の最後に書いてあります。
「男」はまだ信じています。芸術か、それとも別の何かを。どんなに理屈で語ろうとも、空の青さは語りえない。どれだけ否定しようとも思い出は美しいまま。ずっと未来に、自身が動けなくなる直前に思い出すのは、きっと美しい記憶なのでしょう。
映画「ブレードランナー」では雨の中、力尽きる寸前にロイはデッカードに自身の見た美しい景色を伝えます。「男」は歌詞の最後に「僕もその青さがわかる」と言い残しますが、「男」にも誰かに知ってほしい景色があるのでしょうか?
7曲目「花人局」 力尽きたように穏やかな曲調。妻の死後の心境について独白します。
妻の消えた部屋で生活は続きます。遺品や面影ばかりが目に留まる中、「覚えていない」と「男」は連呼します。また「否認」のフェーズですが、勢いの良さは消えてしまいました。ラスサビ前でとうとう「男」は自身の悲しみと正対します。
妻の思い出で思考が埋まる毎日。「この部屋にもまた春が来て」気が付けば一周忌。最後は「言葉だけをずっと待っている 夕焼けをじっと待っている」と「抑鬱」の底で動けずにいる「男」の姿が描写されます。
さあ””死の受容のプロセス””を一通り終えたところでしょうか。まだ7曲を残してアルバムは進みます。
8曲目「朱夏期、音楽泥棒」 静かなインスト。5曲目は青年期でしたが、朱夏期を迎えただただ穏やかです。次はアルバムタイトルを冠する楽曲。
9曲目「盗作」
「男」がこのアルバム「盗作」を発表した理由を語っています。心に満たされない穴がある。芸術家としての生命を絶った後の景色を見ること、それこそが自身の穴を満たしてくれると「男」は信じます。
この曲は創作の目的についての説明色が強いので、ここで話すことはあまりありません。個人的に好きなポイントを話すなら、開幕の3,4フレーズでしょうか。「音を聞くことは気持ちがいい」と誰もが頷くように誘導してから直後「聞くだけなら努力もいらない」と全方面へ強烈なパンチを放ちます。こういった、時折挟まれるシニカルさは好きですね。
本題に戻って10曲目へ。このアルバムで一番好きな曲を決めるとすると、かなり迷いますが私はこの曲です。
10曲目「思想犯」 PV見てね。
見ましたか? 見ましたね?
このアルバムでは最後となる「怒り」の爆発、そして上った角度で急降下し「悲しみ」へ。オーウェルの「1984年」及び尾崎放哉の俳句をオマージュしながら、破壊や後悔に纏わる美意識と満たされない孤独と空白を叫びます。
ガラスを割る音、紙を破く音。喪失や破壊の中にも美しいものはある。けれど、そのまま発表/主張しては大衆は見向きもしないでしょう。だから「さよならの後の夕日」のようにオブラートに包み、綺麗に整えて、誰にでも分かるように発表する。
オーウェルの世界と異なり、現代日本では一応思想および言論の自由は保たれているはずですが、表現の世界においては、過激な表現は消極的に――単純に売れないからという理由で――排他されることでしょう。「男」は長く盗作により、売れる音楽を作ることで収入を得てきました。作曲家最後と決まっていたこのアルバムの中で、「男」はとうとう思想犯罪――破壊的美意識の発露――を成し遂げるのです。
放哉辞世の句、「春の山のうしろから烟が出だした」をオマージュしたのち、埋まらない孤独についてほつりほつりと語ります。
「男」の目的は自身の破滅。ですが本当に心の穴は埋まるのでしょうか? PVではファンレターや罵倒の張り紙が映ります。しかしそのどちらも「男」の心を動かすことはありません。「男」は自らの仮面を剝がすことを試みますが、剥がして現れたのは新しい仮面。「レプリカント」でも語られていましたが、人間は芸術のレプリカ。表面的に思想/行動を変えたとしても、それもまた誰か/何かの模倣なのです。
君の言葉が飲みたい。「男」はそう願います。「入れものがない両手で受ける」とは尾崎放哉の句。両手を揃えて差し出し、施しを受けると自然と感謝の念が沸き頭が下がる。一方で、感謝しながらも器も持たないことを自虐してしまう難儀な性情。自らを貫く視線、内省もしくは自虐の精神はヨルシカからも感じられるところで、私もそのような視線を持ち続けたいものです
。
※閑話休題:放哉は自省/内省が苛烈でありながらも、素直に自然の美しさを見つめる俳人なので買いましょう。「死を生きる」は放哉の生涯が纏められており、読みやすくお勧めします。
歌詞の最後ですが、美しく終わり切れない「男」の揺らぎが表れています。茜の中に遠ざかる君に「さよなら」と言い、夜が下りてくる。そこで終わることが出来れば、「さよならの後の夕日」の通りに美しく終われると分かっているはずです。
それでも「また明日」と願ってしまう。綺麗な歌を綺麗に終わらせることが出来ない。この一行が余分になっているのですが、美しいものを壊すことが美しいことを私たちは知っています。どうしようもなく零れた一言が、この美しくなさこそが美しいですね。
11曲目「逃亡」
逃亡。隣の町の夜祭りへ、あぜ道の向こうへ、道の向こうへ、丘の向こうへ。「男」は自身を離れ、自分の中の思い出へと潜っていきます。「大人になってもずっと覚えてるから」と素直に思い出を認め、ただただ進みます。他者の視線やアルバムの事、世界の事など、つまらないことは置き去りに。
12曲目「幼年期、思い出の中」 ピアノの音だけが響くインスト。
””死の受容””が徐々に進んでいきます。否認も、怒りも、取引も、抑鬱も消えていきます。残り2曲。
13曲目「夜行」
とうとう「受容」が始まります。「男」と妻との幼いころの思い出。夏の終わり、幼年期の終わり。一人でまた歩き始めた青年は、とうとう大人になります。
僕はここに残るんだね。買ったまま読めていないのですが、これは『銀河鉄道の夜』オマージュでしょうか? 思い出の中で生き続ける妻。ずっと向こうへ往ってしまうこと、もう思い出の中でしか会えないこと。「男」はとうとう「そうなんだね」と、ただ静かに別れを受け入れるのでした。
さて、アルバムは最後に1曲を残すのみですがその前に「受容」について、説明することがあります。受容とはすべての抗いを止め、死を受け入れること。しかし、受容段階に入った人間の中には、さらに先の境地へたどり着く人がいるとされています。
仏教用語で言うところの解脱
これまでの価値観から離脱する境地
心に完全な安らぎを得る
こうした精神状態が例として挙げられています。
それでは、最後の曲を聞きましょう。PVは映画のアニメーションが用いられていますが、初めて聞く際は音声だけで聞いてみてほしいと思います。
14曲目「花に亡霊」
いかがでしたでしょうか。
「夏の匂いがする」 本当にただそれだけの曲です。「男」の中に残ったのは、幼少の2人で過ごした夏の思い出。
歌詞に意味はなく、曲調はシンプル。ただただ美しい、美しさだけの曲。
「浅い呼吸をする」のは、夏の熱気に耐えかねたためでもあり、涙が止まらず息が吸えないためでもある。
「汗を拭って夏めく」のは、汗を拭って涼しさを感じるためでもあり、涙を拭った跡が冷えるためでもある。
思い出の二人は昼夏の中ですが、「男」は一人夜闇の中。「もう忘れてしまったかな」と何度も問いかけますが「男」が忘れることは、これまでもこれからもないでしょう。
最後に一つだけ、芸術の価値について。
「花に亡霊」では1サビ前に「形に残るものが全てじゃないように」と、芸術は有形無形を問わないことを歌います。2サビ前では「歴史に残るものが全てじゃないから」と、他人の評価は関係ないと語ります。そしてラスサビ前。
「心に響くものが全てじゃないから」 誰の心を動かさずとも。自分でさえ忘れても。作った芸術はいつか必ず心に浮かび上がり、誰かの心を動かすのです。
それはきっと、空の青さが分かるように。