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創作者と神性

神格化という言葉がある。
僕はヨルシカの思想に多分な影響を受けているから、神様は作品の中にだけ宿ると信仰している。
芸術作品は僕にとっては神そのものだ。

けれど、優れた作品に触れた時、僕はその作者のことも神格化してしまう癖があるようだ。僕に限った話ではないかもしれない。

作者を神格化することが一概に悪いとは言わないし、個人の自由である。
ただ、個人的には少し好ましくないことだと思う。
好ましくないというのは、僕の信仰にとって都合が悪いからだ。


人間は喋る。作者も喋る。
「これからのヒーローの条件は失言しないことだ」と伊坂幸太郎も言うように、失言というのは尊敬や神性を損ねてしまう。失言する神は神じゃない。

どこの神話や聖書を紐解いても神の実在は証明できないように、神というものは常に謎めいている。
だがそれは神の美点でもある。神は我々に解釈の余地を与えてくれているのだ。謎や不思議を残しているからこそ、私たちは自由な願いや、こうあって欲しいという思いを乗せ、自分だけの神を思い描くことが出来る。

僕が芸術信仰をインストールしているのも、生まれて初めて見つけた””都合のいい宗教””だからだ。作品は喋らない。変化することもない。信者は僕一人だから宗派で対立する心配もない。
僕の神は、僕が感じたままの姿で存在し続けてくれる。

人間はそうではない。何か発言するごとに、姿を見せる度に、僕が受ける印象は変わっていってしまう。
だから作者のことを僕は信仰しないように気を付けているし、作者が作品について口を開くことは好ましくない。(繰り返すが僕にとってはだ)
ただ、そうも言っていられない種類の芸術がある。
そう、音楽だ。ライブだ。


これはことさら頭の痛い問題である。なにしろ作者の姿は舞台照明のもとに晒されるのだし、MCの時間が来れば普通に喋るのだ。
作者の姿というものは、もともと作品の向こうを透かすようにして僕が勝手に想像して作るものだ。
それが一夜で不可逆に覆るのだ。作品を見た時にも作者の姿というのは紐づいた様に思い出されてしまうのだから、イメージを作り上げてきた側としては堪ったものではない。(勝手に想像しておいてなんなんだ)

じゃあ見るなよという話だが、でもやっぱりライブは見たくもあるのだ。だって神様(Live version)が聞けるから。神様が現れるとあって見に行かない信者はいない。

僕は一夜限りの神様を聞ける楽しみと、今までの神が死ぬかもしれないという恐れをもってライブを観に行く。
先週はオンラインライブがあって、楽しみにしていたのだけれど、初登場した神の神性が損なわれてしまった。それは僕の勝手な思いだし、致し方ないことなのだけれど、それでも今まで好きだった楽曲を今まで通りに楽しめなくなってしまって悲しかった。


最近はorangestarのライブを観た。最近ハマったのだけれど、アーカイブの配信期間がちょうど今週だったようだ。

9/19までアーカイブがあるらしい


orangestarの姿を見たのは初めてだったし、ボーカルもvocaloidではなく生身の人間だった。

ただ面白いことに、僕が見ていた神性は失われなかった。orangestarの曲は今もやはり素晴らしいし、ライブも良かった。
どうして神性は損なわれなかったんだろうか。

僕が思ったのは、作品の原点はやはり謎のまま残ったからじゃないかということだった。姿を見た程度で謎は暴かれなかったのだ。
作者がしつこく夏の憧憬を描く理由も、作者の原体験も、作者の信仰が作品に与えた影響も。
やはり謎は多いほど良いのだと思う。僕が謎めいた作品を好むのもそのためかもしれない。いや、因果が逆なのかな。

ライブを観ることは今でも怖いことだけれども、それでもやはりライブに行ってしまうのだと思う。
パンドラの箱と分かっていながらも開けずにいられない。罪と罰が課されると知っていながら、僕は神様に近づこうとする愚行を辞められない。


これからも沢山の神を知り、神を信じ、神に背き、神を忘れるのだろう。
それはとても恐ろしいことで、とても楽しみなことだ。
いつかの僕の指先にも神が宿っていればいいのだけれど、僕は少しお喋りが過ぎるみたいだ。僕が僕の作品を汚していなければいいなとは願う。



ちなみにヨルシカのライブにはリアルで行ったのだけれど、神性が減るどころか増したので驚いた。あの顔を隠すスタイルと、物語の表現者に徹する演出は最高だった。
新曲を聞いてもブログを読んでも神性が一ミリも削れないところを見るに、どうもヨルシカに対してのみ、作品だけにとどまらない信頼と信仰を置いているようである。我ながら適当な宗教だ。


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