写真のこと
あまり写真を撮らない。
だけど今日みたいに天気が良くて、気分が良くて、なんだか幸せな時はポケットからiphoneを取り出して無造作にパシャッと1枚撮ったりすることもある。この記事の表紙画像もそれ。
ほとんど時間を掛けずに、構図も何も考えずに撮るし、そもそも性能がiphoneのカメラなので、あまり他人に見せる価値のある写真ではないなと思う。
だけど、カメラロールにはこんな風に撮った写真がいくつか眠っていて、たまに見返すと少し幸せな気分がする。
写真のことは嫌いじゃない。
けれど僕が写真に対して抱く思いは、少しだけ複雑なものがあって。僕は、それに長いこと困っている。
僕の父親は写真家だった。というと少し語弊がある。まあ写真を撮ることが仕事だった。
大学に行く前に長いこと浪人して、卒業してからはフリーターのような、写真家見習のようなことをして長く過ごしていたという。ブラブラしていたともいえる。あまり話してはくれなかったけれど。
ジョンデンバーが好きだった。あの「カントリーロード」の作者だ。父親は自然が好きで、動物が好きで、そういうものを写真に残したがっていた。
「残す」というよりは「遺す」と綴った方が正しいのかもしれない。自然や動物が人間社会に押し出され、行き場をなくして消えていくことを憂う人だった。そういうものを写真に撮って残すことが父さんの使命なんだ。そんな風に話していたことを、朧げに覚えている。
父親の夢は叶ったのかは分からない。
結局写真家では生計は立たなかった。会社に入って、自然や動物ではない写真を撮った。定年まで、そうして勤め上げた。
けれど、動物写真を辞めたわけではなかった。父親が、嬉しそうに振込明細のハガキを見せてきたことがある。自然・動物写真を販売している会社からの振り込みだ。父親はそこに写真を投稿していて、その写真が何かの本に掲載された。その著作権使用料だった。
1万円と少しだったと思う。少額だと言って笑っていた。実際そうだと思う。ただ、その時の嬉しそうな顔を、僕は覚えている。
それから色んなことがあって、僕は家族と疎遠になった。
僕が疎遠にしている。
写真について考えるときはいつも父親のことを思い出すし、だからつい苦い顔をしてしまう。どうしても負のバイアスを掛けてしまうので、僕は写真と純粋に向き合うことが出来ずにいる。
とはいえ、写真が優れた情報伝達手段であることは事実としてある。自分の見た景色を、自分の視点から切り取って、相手と共有することが出来る。
旅行先の風景を撮って、誰かに見せるなら写真ほど優れたメディアはないだろう。一目でその綺麗さが分かるし、何枚でも取れる。なにより作るのが簡単だ。シャッターを押すだけでいい。
シャッターを押すだけでいい。写真の功罪はこの一点に尽きると思う。
老若男女誰でもシャッターを押すだけで取れてしまう。撮影者が誰であれ、同じ場所に立って同じカメラを構えれば同じ写真が撮れる。それはもう綺麗に撮れてしまう。
観光地で無作為にパシャパシャと撮られた写真は「綺麗な画像」以上のものにはなり得ない。そんな風に考えてしまう。
非難したいわけじゃない。
僕が言いたいのは「僕に撮れた写真は、僕じゃない誰かでも撮れた写真である」ということだ。
僕が写真を撮る必然性は、どこにもないような気がするのだ。観光名所の写真を撮るなら、僕よりいいカメラを持った人が、僕より頻繁にそこに通う人が、僕より優れたタイミングでボタンを押せた人が撮ればいい。
だから僕は、観光名所であまり写真を撮らない。
写真の目的は「誰かに見せること」だけではない。「自分で思い出す」ことも大きな目的だ。むしろこちらを重視する人も多いかもしれない。
けれど、「自分で思い出すこと」を目的に置いた時にこそ、写真の欠点はより強く浮き出てくるのではないだろうか。
話が飛ぶのだけれど、英単語を暗記する時を思い出してほしい。単語帳を読むだけではなく、書き写すこと、声に出すこと、それらを繰り返すよう指導された経験はあるだろうか?
あれらは全て「覚える」ことを目的とする行為だ。単語帳を読むだけではすぐに忘れてしまう。実際に手を動かすこと、読み上げること。反芻するように同じことを繰り返し脳に焼き付けることで、僕たちは英単語が覚えられる。
写真はそうじゃない。シャッターを押して、それで終わってしまう。
一度眺めたきりの英単語を見て、あなたはその意味を思い出せるだろうか? 僕はそれが出来ない。簡単に撮っただけの写真では何も思い出せない。
もちろん写真というのは強いメディアだ。風景を切り取り、色褪せずに保存できる。だから、当時の自分が何を見て、どこにいたのかまではすぐに思い出せる。
けれどその時の感情は? 写真を撮ろうとしたときの感情は? 何を考えてカメラを構えたのか?
僕はそれが思い出せない。思い出したいのに、僕には思い出せない。適当に撮った写真では思い出せない。
だから僕は文章を書いている。
記憶をカタチにするのは、脳に記憶を文字通り刻み付けるような苦しい作業だ。それでも、忘れたくないことを忘れないためには、文章を書くこと――手間と、時間と、苦痛を掛けること――が必要だと思うからだ。
そうは言っても、感情や撮影時のことを思い出させる写真というのも存在していると思う。
自分で撮った写真をいくつか挙げてみる。
一年ほど前に神戸で撮った写真だ。神戸は僕が、他の人より少し長い大学生活を過ごした場所で、特別思い入れのある場所だ。
これは先ほど言ったような「シャッターを押した」だけの写真だ。iphoneを出してから撮るまで5秒くらいだろう。けれどこの写真は、僕にとっての神戸を象徴するような、大学生活を思い出させるような写真になっている。
逆に、ウンウン唸って時間をかけて撮った写真もある。
友達と岡崎両行に行ったときに撮った2枚だ。写真が好きな人で、何枚も取っている姿を、僕は後ろから眺めていた。
一枚目の枝垂れ桜は、何分も掛けてこの1枚だけ撮った写真だ。左下の別の樹が写りこんでしまうだの、角度が気に入らないだの、カメラを構えては立ち位置を変え、立ったりしゃがんだりしたことを思い出す。
二枚目の桜並木(散り終わり際)を撮ったこともよく覚えている。僕は直線が2,3本スッと通っている構図が好きで、気分よく取れた写真だ。「この並木をどう撮るか」なんて二人で話して、「やっぱりトラック通行禁止のマークは映りこませるよな」と言って意気投合したことを思い出す。
結局の所、僕は写真に映したものではなくて、写真を撮っている僕のことを忘れないでいたいんだろうと思う。
写真を撮っている振りをして、その実、残していたのは僕とその周りの姿だったのだ。
思い返せば、他人と思い出を共有することに期待したことがなかった。写真を見せても、僕のことまでは伝えられない。
僕は僕のことを伝えたくて、文章を書いている。もちろん文章なら伝わるなんて、淡い幻想に過ぎなくて。それは僕の願いでしかないのだけれど。
空が青いのってどうすれば伝わるんだろう。
直線、曲線で区切り、モチーフを画面中央からハズす構図。素早く撮ったはずなのに手癖が現れていて面白い。
僕はどうにも斜に構えた構図で撮りがちだ。けれど好きだから仕方がない。そうやって自分を許せるようになったのは最近のことだ。
父親には感謝しているし、父親のことは好きではない。
写真に対する感情も、それに似ているかもしれない。
僕は風景ばかり撮る。
自分のことは撮らないし、他人の写真も撮らない。風景にも映り込まないように撮る。
他人に興味がないんだろうか。
最近よく、「猿のタイプライター理論」を思い出す。猿にタイプライターを無限に近い時間まで叩かせていれば、いつかはシェイクスピアの戯曲さえ書きあがるという思考実験だ。
写真を撮るとき、シャッターボタンを押し込むとき、俺はその猿じゃないかとよく思う。
「猿だって戯曲が書ける」と信じながらそのまま撮影することもあるし、「俺は猿ではない」と念じながら、あれやこれや試行錯誤の末に1枚撮影することもある。
今文字を書いている俺は・・・どっちだろうか。
ケータイにカメラが標準搭載されるようになり、写真という表現手段はごく一般的なものとなった。
僕は表現手段としては文章の方を好んでいるのだけれど、写真の持つ写実性、簡便さ、客観性などは、やはり写真にしかない利点だと思う。
先の友達からフィルムカメラを借りて街を歩いたことがある。カメラを首から下げていると不思議なもので、見慣れたはずのあらゆる街中の事物に3×3のグリッドラインが見えてくる。
写真を撮るという事を意識するだけで、あれだけ物の見え方が変わるというのは、目にフィルターが掛かったようで新鮮な経験だった。(結局一枚も取らずにカメラは返してしまった。考えれば考えるほど撮れなくなってしまう)
写真に限らず、例えば音楽を作る人だったり、俳句や短歌を詠む人は、きっと別のフィルターを通して世界が見えるのだろう。それはとても羨ましいことで、僕も表現の幅を広げてみたいとは思う。
写真との付き合い方は、まだよく分からない。文章が書けるのだから撮る必要がない気もするし、3秒で撮る写真に忘れられない価値が宿る可能性を信じてみたくもある。
とりあえずはポケットにiphoneを入れて。視界の中に3×3のグリッドラインを想像して。外に出て色々な景色を見に行こうと思う。
そろそろ夕方だろうし外に出ようと思ったら夜でした。今日の所はここまで。
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