サイズ合った服、着ようって【プロポ】221003

前回に引き続き、

「魚が締められる映像にクレームが入った件」について思ったこと。

後編。



クレーマーと化した皆様に、私は言いたい。

今後、スーパーなどで、肉や魚、買うなよ。と。


どこかで誰かが、動物の命を奪ってくれて、食べやすい形に加工してくれているから私たちは、それらを享受できている。

その命を奪うという現実を、普段、目にしていないというだけであって、その現実は間違いなく存在するのだ。

かく言う私だって、目の前に牛や豚がいたら、殺すことはきっとできないだろう。

叩いたり、刺したりして、痛そうに苦しんでいる様子を想像しただけでこわくなる。

それなのに、毎日、うまいうまいと食べている。

無意識のうちに、見ないフリをしているのだ。命を奪うという現実を。


そういう、業を背負っている。誰しもが。


命を食べているということに、現代人である我々は本当の意味での実感をもてていない。

生きた動物が目の前で殺され、さばかれ、トレイに乗せられて、いつも見ているような商品になったとしたら、きっと誰も買わないだろう。

本来なら、自分が生きるために、生きた魚の頭を落とす。そんなの当たり前の光景なのだ。

鮮度を保つために魚にワイヤーを通す。
当たり前のことだ。

そういう映像に必要以上に嫌悪感を抱いてしまうほどに、
我々の「命」に対する実感は、希薄になってしまっているということだ。


現に、食べ物を粗末にする人の、なんと多いことか。

私は、偏食な人のことは特になんとも思わないが、

「私はこれが嫌いなの。」と必要以上に主張して、残したり捨てたりする人のことは大嫌いだ。


食べ物に限らず、「命」という実感が薄まれば薄まるほどに、自分の命も、他者の命も大切にしなくなるだろう。

我が国が「自殺大国」になっているのは必然と言える。

アフリカなどにあるような、自給自足、狩猟採集を現代でも続けているような部族で、自殺が起こるとは想像できない。
殺人も、滅多に起きないであろう。

彼らにとっては、「命」がリアルで、クリアで、そして宝物なのだ。


では、幸か不幸か、命を身近に感じられない国に生まれてしまった我々にできることは、何だろうか。


情けない結論にはなるが、食べ物も、自分も、他人も、大事にするしかない。

「大事である」ことと、
「大事にする」ことは、別物だ。

大事なものであるなら、ちゃんと大事にしないといけない。


とりあえず、
「批判」より、
「感謝」の数を増やそう。


魚に関する少しショッキングな映像を見たのなら、
批判するより、それを食べさせてもらっていることに感謝だ。


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