玄関の忘却
ガチャン。
家に帰った時の玄関の閉まる音を聞いた瞬間に、「あ、お金おろすの忘れてた」ってなりました。
中井貴一「こういうこと、ありますよね」
急に誰?
玄関の閉まる音にはおそらく魔法の力が宿っている。工事の時に大工さんが「家に帰ってきた時に玄関ドアの閉まる音を聞くと、忘れていた用事を思い出す」という魔法をかけていたのだろう。
この仕事をショボいなんて言ってはいけない。彼だってホグワーツに通って、技術を学び、なんやかんやしてお給料をもらっているのだ。立派な仕事である。マグルごときがショボいとかぬかすなよ。
もしかすると玄関のドアが閉まる音を携帯に録音して、出先で「なんかやり忘れたことあったかな~」て時に聞くと、卵を買い忘れたり、封筒をポストに投函し忘れたり、駅前の国境なき医師団の人同士をめちゃくちゃケンカさせて領土分断させるのを忘れたり、などのすっかり忘れていたことを思い出せるのではないだろうか。これが可能であれば後日郵便局に行く必要も国境なき医師団本部に乗り込む必要もない。
いや、別にわざわざ携帯に録音しなくても、117にかけると時報に繋がるみたいに何かしら番号を設定すればいいのだ。そうすればみんながこの魔法の力を利用できる。誰に頼めばいいんだろう。
待てよ。そんなことしなくても、夕方になれば子供たちを家に帰すために流れる放送だったり、長針が0を指す度に鐘が鳴る街の時計のように、玄関のドアの音を街の中で放送として流せばよいのだ。
この音は設置当初人々が想定していたよりも遥かに生活に根付くものとなり、これのない生活は考えられないほどとなった。この暮らしの中では誰一人として、夕ご飯の支度の際に卵を買いにコンビニに走ることもなければ、国境なき医師団の国境の無さに気を揉む必要もない。本当に便利で人々が必要としているものとは、一つの星を滅ぼすような強力な感染力をもつウイルスが如く、生活を侵食していく。
しかし、「都合の良いものには必ず代償が存在する」というのはどの時代の辞書にも記されている。お手持ちの辞書を開いてみてほしい。まあそんな文章無いと思うが、玄関ドアの音に代償は、存在した。
人々はその音を聞きすぎたあまり、魔法に対する耐性が付いてしまったのである。はじめの方こそ、「音量を少し大きくする」だの「強めの魔法がかけられた玄関のドアの音を流す」だの、その場しのぎの対処は為されていた。ただ、これは、薬の効きが悪くなってきたから処方の量を増やす薬物依存者と何ら変わらない。だが人々はこれに気付くことなく、何度目かもわからない音の差し替えを役所に訴えに行く。この連鎖は止まることがない。なぜなら誰一人として何も忘れたくないからである。
そして事件は起きる。 あの大工さんが死んだのだ。
第二次魔法戦争の際に単騎で死喰い人を41人葬ったが、闇の帝王の手により散ったという。
このことにより玄関のドアに魔法をかけることのできるものはいなくなり、街に流れる玄関ドアの閉まる音が新しいものと差し替えられることはなくなってしまった。人々は現時点で流れている玄関ドアの音を頼りにするほかなく、しかし次第にそれに対しても耐性が付いてくる。
大工さんの死から1年後、人々は何も思い出すことが出来なくなっていた。卵を買うことを忘れるどころか、卵とは何か、ということさえも。国境なき医師団の人々は国境をどこにしまっておいたかを忘れてしまい、全員で棚やデスクの中を探していた。
やがて人々は、料理の仕方、ペンの持ち方、愛する人の顔、そして自分の名前に至るまでもを思い出せなくなってしまっていた。もっとも、自分が生きる意味については誰も知らなかったので忘れようがなかった。
学校も仕事も何もかもを忘れてしまった人々が徘徊する街では「ガチャン」という放送だけが規則性を持つ。この、本当に便利で人々が必要としているものが、本当に一つの星を滅ぼすような強力な感染力をもつウイルスだったことは言うまでもない。
しかし、まだ全てを覚えている者がいた。
彼は宇宙飛行士であり、ちょうど地球に生還したところであった。そのため玄関ドアの音の影響を一切受けていなかったのである。彼は軽くため息を漏らした後、柔らかい笑みを浮かべながら言った。
「こういうこと、ありますよね」
かくして人々の記憶力は回復し、生活はすべて元に戻った。玄関ドアに魔法をかけることのできるものはいなくなったので人々は毎日何かをー卵を買うこと、国境を分断すること、何かを忘れていたこと、誰かが助けてくれたことをー綺麗に忘れているが、それでも幸せな生活を送っていた。全ての物事を覚えていることは、人間の脳の構造的に無理な話だったのだろう。
宇宙飛行士の彼は、今回で12回目になるこの出来事をどこか風物詩のように感じており、次はいつになるだろうかと考えていた。
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